1ー2 無気力男とお節介女
冬の足音はもう直ぐ後ろまで迫っており、裂くような風の音は、寒さと鋭さを感じさせる激しさだ。
漁のためではなく、重工業用の材料を運び込むための港では、ひっきりなしに大型の船が行き来していた。
海沿いの国道を繋ぐ、五十メートルにも満たない鉄橋の下、遥は一人海を眺めていた。時折魚が跳ね、集団の影は安息を求めるように水面を漂っている。
遥は軽く伸びをして、喉や舌を震わせ、歌うための準備を始めた。鉄橋を走る自動車が音をかき消すため、屋外にも関わらず全力で歌える場所として重宝していた。
深呼吸を何回か行い、準備は大方整った。母親がいなくなった日から、「上手だね」と褒められた歌に固執していることは遥自身もわかっていたが、手放すつもりはなかった。
さあ歌うぞと意気込み、下腹が呼吸により膨らんだ刹那、突然背後から背中を押されて、遥はつんのめりそうになった。
「お、おおおお、おおお」
「やっ。遥こんばんわ」
海に落ちる寸前、なんとか体勢を立て直し、ずぶ濡れの未来は回避した。
遥は背中を押した人物に向き直り、恨みがましく視線を送ったが、諦めたように嘆息した。
「カナタか。危なかっただろうが」
「ごめんごめん。なんだか、押されたそうな背中をしてたからさ」
「どんな背中だよ。バラエティか」
スカートが汚れることも気にせず、カナタは遥の隣に腰をかけた。
「怒らないの?」
「怒ってもしゃあない。どうせやる時はやるんだろ?」
「遥ってほんと怒らないよね。マゾなの?」
「褒める流れじゃなかったのか?」
まあいいけど、と吐き捨てるように遥は放つ。
しばらく二人で海を眺めていた。特に話をしなくても、気まずさを感じなかった。
ふいに、カナタは口を開いた。
「いよいよ、今週末だね」
「何が?」
全く意に介していない遥の様子に、カナタの表情は未確認生物でも見るように歪んだ。
「嘘でしょ。鈴森さんとデートだって、自分で言いふらしてたじゃん」
「ああ。そうだったそうだった。すげえ楽しみだぜひゃっほーい」
「とってつけたようなリアクションだ。遥は本当に鈴森さんのことが好きなの?」
「好きだとは思う」
「じゃあ好きな子とのデートの約束を忘れてたってこと? それはヤバイね」
「どのぐらいヤバい?」
「9時集合の予定が、起きたのは10時だった」
「それはヤバイな」
というか終わってる。自嘲気味に言い放つ遥の頬を、カナタはつねりあげた。
「痛いんだけど」
「本当に好きなんだったら、もっと真剣に考えなよ」
鬼の形相で迫られながらも、その意見はもっともだと思う。
しかし、真剣に好きな子のことについて考えるという行為が、遥にはよくわからない。何かをして欲しいとか、何かをしてあげたいという思いを、世間一般では好きな子に対して抱くらしい。
遥は、同じ合唱部に所属していた、鈴森素直について考えた。
くせっ毛でうねる髪を雨の日は軽く抑えながら直している姿は、可愛らしさを感じる。少しぼやっとした喋り方をしているが、いざ合唱をする時には、声色は力強くはっきりとしたものに変貌する。そのギャップは、普段の様子との差異があり魅力的だなとは感じる。
ちょっとした他者の失敗を「しょうがないなあ」の一言で片付けてしまう器の大きさも、遥はとても好ましく思った。
部活動を引退した後も、その面倒見の良さから、ちょくちょく鈴森は顔を出していた。遥も鈴森に誘われ、まだ声の出し方もわからない一年生に、喉の開き方のレッスンを施した。
十二月ともなると、遥も鈴森も受験勉強に追われ、部活動に顔を出す暇もなくなった。
たまたま鈴森と帰宅タイミングが合わさった時、クリスマスイヴになんの予定もないという話になり、気分転換に出かけようという話となった。クリスマスイヴに異性と出かけるという出来事は、少しばかり特別なものになる。そんな予感に身を震わせていた。
にも関わらず、忘れてしまっていたことに、遥はわずかに自己嫌悪の念が渦巻いていた。
「どうでもいいってわけじゃないんだけどな。なんでいつもこうなんだろ。自分で言うのもなんだが、真剣味がないというか」
「私が思うにね、遥はなんていうか、先のことを諦めてるんじゃないかって思う」
「諦めてる、ね」
「春に出した進路調査表、白紙で出したんだって? 鈴森さんが言ってたよ」
「今になって、その話を持ちだされるのか」
遥にとっては耳の痛い話だが、自分の未来というものを、うまく思い描けていないことは事実だった。
進路表を白紙で提出する行為に、なんの意味もないことは理解しているのだが、それ以上に何をしたらいいのかわからない閉塞感に、囚われていた。
一応は近場の大学を受験する予定ではあるが、勉強が進んでいるとは言い難い状況だ。
カナタがやってきたことで、すっかり歌う気力も削がれてしまい、なんとなしに揺れる海面を眺める。誰が捨て去ったのか、空のペットボトルが海岸沿いに集まっていた。
あんな風にプカプカ流されて浮いているだけで生きたいもんだと、無気力にも遥は思った。
「ねえ遥」
「なんだよ」
遥はカナタへと視線を動かす。口元は結ばれて、瞳は下へ伏している。いつになく真剣な表情。
「もしも過去に行けたらさ、何がしたい?」
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