閑話:約束した


 小学生の頃、新品の傘を使いたくて、雨を待っていたことを思い出す。だからこんな風に急に雨の降った時は、あの頃の私を召喚して傘をさしてもらいたいもんだって。

 現実にそんなことが起こるわけもなく、会社を出てすぐ近くのコンビニに入った。入ってすぐに新商品のお菓子が並んでいる。

 今日は帰るだけなので、お菓子は無し。とりあえず一番安いビニール傘を持ってレジへ行く。周りも傘を買っている人が多い。やっぱり急な雨だったよね、冬では珍しい。

 コンビニを出て、買った傘を開く。透明なビニール越し、暗くなった空に浮かぶ雲が動いているのが見えた。

 この前、社会人になって一番仲良くしている千佳が、私の同僚の鷹山と付き合うことになったと聞いた。嬉しい反面、少し寂しい。私の見つけた親友をそんな簡単に掻っ攫っていくなんて。

 千佳に対する気持ちはおめでとうなのに、鷹山に対しては八つ当たりをしている現在。鷹山も多分、それを分かっていて黙っている。

 クリスマスを終えた街からは電飾が一気になくなくなった。売れ残りのケーキが安くなって店頭で売られている。来年のクリスマスは独りじゃないと良いな、とは思う。

 うちの家はそんなに結婚はどうするのかとかは言われないけれど、まあ私だって人並みに結婚……。


「したいのかな……」


 呟いた言葉は雨音に消えた。

 ふと傍のガードレールに人が寄りかかっているのが視界の端に見える。行き交う人もちらちらとその人を一度見て、自分の目的地へと急いでいく。それはそうだ、殆どみんな傘を持っていない。

 私もそれを考えながら、彼女を横目に通り過ぎる。誰かを待っているのか、それとも雨に打たれたい気分なのか。私と同じくらいの年齢にも見える。

 通り過ぎて、駅が見えたところで立ち止まる。

 傘を持っているのだから、入れれば良い。いちおう声をかけてみるだけでも。

 トライアンドトライ! モットーを掲げた中学生の頃の私が手を挙げている。


「寒くないですか?」


 戻って声をかける。彼女は少し驚いた顔をして目を瞬かせた。その拍子に睫毛から水滴が落ちる。泣いていたのかと錯覚した。


「……寒いですけど」

「傘入ってきます? 駅までなら」

「結構で」

「妊娠、してるの?」


 食い気味できた返答を食い気味で返した。肩に掛かった鞄についたマタニティーマーク。それが目に入った。

 傘を彼女の方へ傾ける。


「妊婦なのに雨に打たれるなんて。風邪ひいたらどうすんの」

「あ、あなたには関係ない!」

「ヒス起こすとお腹の子に良くないよ」


 掠れた声で声を上げる彼女の腕を引っ張る。私の言葉に対して何か思うことがあったのか、彼女は黙った。


「タクシー拾う?」

「……ううん、お金ないから」


 肩を並べて一応駅へ向かって歩き始める。千佳とは似た背なので、隣を歩く彼女は私より少しだけ背丈が小さく、女の子という感じがする。茶色い毛先が雨粒に濡れている。


「いい人だね、あなた」

「人生初だけどね、知らない人を傘に入れるなんて」

「あたしも知らない人に傘入れてもらうの、人生初」

「実はビニール傘買うのも人生初だった」


 私たちは人生初のことをカミングアウトし合う。彼女がどこの人間か、名前すら知らないのに。

 だからこそ、言えることもあるのかもしれない。


「妊娠したのも、初めて……」


 ぽつりと、零す声。それは自分に聞かせたのか、私に言いたかったのかは分からないけれど、私には聞こえた。

 その横顔を見る。


「旦那は?」

「いない」

「ふうん。子供への愛情は程々にね」

「そこは大変だね、頑張ってじゃないの?」

「それは言われ飽きてると思ったから。私の友達にさ、母子家庭の子がいるんだけど」


 千佳のことを考える。きっと大変な思いを沢山してきたのだけれど、それを口に出したり愚痴ることは殆どない。女子は集まればマウントを取り合ったり、自分の卑下話が多い中で、珍しい子なのだ。

 彼女は黙ってそれを聞いている。


「その子は母の愛情が過剰過ぎて苦労してたからさ」

「そうなの」

「だから程々に。少なすぎても駄目だけど」

「なにそれ、難しい」

「難しいでしょ。人間関係は」


 そりゃ簡単な人間関係なんてないよ、と続けると彼女が急に立ち止まった。

 私は慌てて傘をそちらへと傾ける。


「あたし、大事な人を裏切ったことがある」


 俯いたまま何を見ているのか分からない。雨音が安定しない。雨の温度は分からないのに、冷たい空気が冬であることを主張する。彼女は言葉を紡ぐ。


「それでも、子供を産む権利あると思う?」


 やっぱり泣いていたんだと思う。もしかしたら、私でない誰かを待っていたのかもしれない。


「大いにあるでしょ。てか、権利じゃなくて義務だよ。あなたが誰をどう傷つけたとしても、あなたの子供にその責任を負う必要はないし」


 そして私は何故か、それに対して怒っていたのかもしれない。この前、既婚者に裏切られたばかりだったし、会社でも良い人だと思っていたのに陰口を言われることもあった。だから、私が裏切られた側の立場にいたからかも。

 でも、千佳のことを考えていたからでもあった。千佳ならきっと、裏切った人に対して何か思うことはあっても、その子に対する感情に伝染することはない。


「だから、あなたはあなたで救われないといけない」


 敗者復活は人生にない。何故かって、人生は何度も挑戦できることばかりだからだ。私がこれからも新品の傘を使うことが出来るように、彼女がこれから誰かの傘に入れてもらえるように。

 そりゃまあ、挑戦したら駄目なこともあるけれど。


「自信持って産めば良いよ。それで今度からはちゃんと大切な人は大切にすれば良いと思う」

「……ありがとう」

「私、そんなに心広い方じゃないんだけど。同期の影響を受けたのかも」


 肩を竦めてみせる。彼女が私の方を見て遣る瀬無さそうに笑った。


「今日、あなたに声かけられなかったら、多分あたし、最低なことしてた」


 ぎゅっと握った拳が白くなっている。その腕を掴んで引き寄せる。傘の中に二人収まって、私は彼女に向き合う。


「光も雨も平等にみんなのもとに降るなんていうけど、あんなの嘘だよね。傘を忘れた人には容赦なく雨は降るし、ビルの影に入ってたら光は差さないし」

「そうね、確かに」

「でもそれって、自分がただ濡れてるだけで、日陰に入ってるだけだと思わない?」


 彼女の鼻の先は赤くなっていた。駅の方へと歩き出す。


「あなたは最低なこと、しないでしょ」

「言ってくれるね」

「私が声かけたんだから。もうしないで」


 鼻を啜る音。


「最低なことしたら、私が悲しいから」


 生まれてくる子供が彼女を止められないなら、私が止める。

 精神的にも物理的にも。


「絶対しない」


 拳がとかれた。その手に血の色が戻ってきて、それを確認する。

 駅に着いた。彼女は手を開いて私にひらりと振る。


「約束する。傘に入れてくれて、ありがとう」

「いーえ、気を付けてね」

「うん。さよなら」


 簡単にその挨拶を口にする。学校にいた時以来、その挨拶を使ってないなと思い出す。さよなら、なんてまた会えるかもしれないのに。

 きっと、彼女は道端で私に会っても視線を合わせることはしないのだろう。それなら、私は目の前に行って挨拶してあげよう。


「また、どこかで」




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