朝焼けに口づけ
隣で動く気配に、片足をどっぷりとつけていた眠りの世界から無理やり抜け出す。薄く目を開けると、こちらを向いた顔が見えた。
「ごめん、起こした?」
首を横に振る。鷹山さんは私の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめてくれた。心臓の音が聞こえるかと思って耳を済ませてみるけれど、それより先に尋ねたいことがあった。
「……甘酒」
くぐもった声が出る。もう一度言い直す。
「甘酒、美味しかったですね」
半分こした甘酒。鷹山さんはそれを聞いて、「うん」と返した。
「美味しかった」
ぐっと力がまた入って、苦しくなる。鷹山さんの鎖骨に額を押し付けた。硬い骨の感覚。背中の皮膚。温もり。
息を吸う音がして、声が聞こえる。
「罰が当たりそう」
「どうして?」
「幸せすぎて、罰が当たりそうだ」
結局、年を明けても実家へ帰ることはしなかった。鷹山さんは、甥っ子の顔を見に帰ったという報告を受けた。この前生まれたばかりらしくて、今度写真を見せてくれると言っていた。
出社してPCのメールを確認していると、加湿器の水を替え終えた木戸が席に戻った。
「先輩、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、明けましておめでとうございます。今年もよろしくね」
「年末年始、どこかに行きました?」
「どこか……初詣くらい」
「バーゲンとか行かないんですか?」
「あんまり興味無いかな」
「へえ、じゃあ福袋とかも買わないんですね」
その通り。私はファッションそのものに興味がない。駄目になった服は捨てて、同じような服をまた買う。そんなのを繰り返している。
幸い、真由にはファッションセンスがあるので「それはさすがにダサい」と正直言ってくれた洋服は着ないようにしている。昔から友人にファッション雑誌を見せられて「これ可愛くない?」と言われても上手く答えることが出来ないくらいには、興味がない。
「木戸は行ったの? バーゲン」
「行きました。好きなブランドが安くなってて嬉しかったです。親も一緒だとお金出してくれてありがたいですし」
「実家帰ったんだ」
「はい、たまに帰るととても歓迎されます」
苦笑気味に返ってくる言葉。私は同じように笑ってPCへと視線を向ける。
食堂に行くと鷹山さんが席に座っていた。その斜向かいにトレイをおろす。こちらを見上げる視線と合って「こんにちは」と挨拶をした。
「こんにちは」
「鷹山さん……味覚戻ったんですよね?」
「ええ、もうすっかり」
確かに、顔色も良い。細かった胴周りが少しだけ広くなった気もする。しかし、そのトレイに乗っているのは。
……ラーメン。
「顔にまたラーメンかって書いてある」
「……もしかして鷹山さんって味覚音痴?」
「とてもストレートにぶつけて来るし」
「私の作ったものを美味しいという評価が全く信じられなくなりました」
「いや、永尾さんの手料理はとても美味しいです。このラーメンは、なんというか……切り難くて」
前に私が『もし鷹山さんがあのラーメンを注文しなくなったら、メニューから消えちゃいそうですよね』と言ったのが悪かったのかも。それは私のきつねそばだって同じようなものだ。
私の場合は味覚がどうこうなってもならなくても、きつねそばを食べている。それなら鷹山さんのことをとやかく言う権利もない。
「どうですか、味の感じるラーメンは」
「塩味は前より感じますけど、前とそんなに変わらないかも」
「そういえば、かき氷のシロップって全部味は同じだって言いますよね」
「あの屋台に出てるやつ?」
「そうそう、鮮やかな色と香りで脳味噌は簡単に騙せるんだって」
コップに入れた水を一口飲む。鷹山さんはラーメンを啜り、食べ終えた。
私はそばを掬う。
「今日、うち来ませんか?」
ぼちゃ、とそばが汁の中に落ちていく。ああ、周りに汁が飛んだ。
「え、鷹山さんの家に?」
「いや、というか一緒に居たいと言いますか」
「あ……はい」
「……ごめん、嫌なら」
「ち、違くて。あの、恥ずかしくて」
近くの布巾を取って飛んだ汁を拭う。顔が紅くなるのを感じていた。そして鷹山さんの視線が刺さっているのも。
顔を上げると、当たり前のように鷹山さんと目が合う。
「……可愛い」
「鷹山さん、今何か言いました?」
「永尾さんのが移ったのかも。心の声が零れました」
にこにこと笑っている。さっきまでちょっと引いてこちらを窺っていたのに、この変わり様。この人、思えば前からそうだったけれど、何気にぐいぐいくる。いや、全然嫌ではないのだけれども。
今まで真由以外とは一線を引いて関係を築き上げてきた私なので、それがなんというか、対処しがたいというか……擽ったい。
バイブ音が聞こえて、鷹山さんが胸ポケットからPHSを取り出す。そこに同じように収まっているボールペンを見て、更に擽ったさが増す。どうして人がにやけてしまうのか、この歳になって理由が分かった気がする。
「ごめん、電話。じゃあ、また連絡する」
「はい、また」
片手で電話に出て、もう片手でトレイを持って鷹山さんは返却口の方へ行った。その後ろ姿を見て、やっぱりひょろっと感がなくなったなあ、なんて思ってしまう。ううん、今までが細すぎた。実は、怖くて体重は聞けなかった。
私は今まで結構かなり、病気のない人生だった。健康優良児だったし、精神的にも健康な方だと思う。それはきっと、育ててくれた母のお陰でもある。
人は一人で生きていくことはない。それは分かっているし、理解している。でも支配して良いわけでもない。私はあれ以上あの家にいて、母と暮らしていたら、その支配に甘えて生きていくことになったと思う。
きつねそばを啜る。年始に鷹山さんが私の作ったものを食べて「きっと永尾さんが正しい美味しさを認識できる味で育ったんだろうね」と感想を述べた。それは、真由が私の作るものを美味しいと言ってくれた時から、少なからず感じていたことだった。
まずまずな味のきつねそばを啜ること。コンビニで甘いものを大量に買って食べてしまうこと。それはきっと、『正しい味』に対する反抗心だ。
遅くきた反抗期に、苦笑いが漏れる。これから先、鷹山さんと一緒にいるのなら、きちんと言わないといけない。というか、いずれきっと。
「……ぼろが出る」
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