ここがスタート


 私には趣味がない。好物もない。だから、譲れないものもない。

 本田さんにそれを言ったとき、とても驚かれた。


「そうなのか……良いかもな、強みがないってことは弱みもないってことだから」

「正直、どうして私がこの部署に来れたのか分かりません」

「俺も分からん。でも、来たからには仕事を覚えてこなさなければならない」


 本田さんは腕を組みながら言った。


「同時に、仕事のできる奴には文句はつけられない。これは社長からのお達しだ」


 そしてニヤリと笑ったのだ。





 真由と別れて、電車に乗る。お寿司美味しかったなあ、と思いながら暗くなった窓の外を見ていると細長い水滴がついた。

 雨だ。

 秋雨前線が停滞しているのか、最近天気が愚図ついている。

 ……てゆーか、傘持ってくるの忘れた。







 鼻水が止まらない。雨の中を歩いたのが原因かもしれない。コンビニで買ったマスクを外して、箸を持つ。


「風邪ですか?」


 聞き慣れた声で尋ねられた。顔を上げると、鷹山さんがラーメンを持って立っている。

 斜向かいに腰を下ろすのを見て、私は隣の椅子に置いた紙袋をテーブルに置いてスライドさせる。


「この前、傘忘れちゃって雨の中を歩いたんです。それが原因かと」

「最近寒いですからね」

「鷹山さんも折り畳み傘は持っていた方が良いですよ。あと、お土産です」

「え、九州の?」


 頷く。私はきつねそばを啜った。温かいものって美味しい。味が分からないので、いつもより美味しく感じる。舌で感じるってこういう利点もあるのかもしれない。


「見ても良いですか?」

「どうぞどうぞ。自分で言うのもあれですけど素敵なんです、私も同じの買おうかなーって迷って」

「素敵……?」


 紙袋から箱を取り出し、慎重に鷹山さんは開けた。


「綺麗だ」

「でしょう」

「永尾さん、買ってないんですか? 自分で使われては」

「いえいえ、鷹山さんのお土産として買ってきたので」

「ありがとうございます。大切に使わせてもらいます」

「はい、是非」


 鷹山さんは早速スーツの胸ポケットにボールペンをさした。うん、似合っている。

 予想した通りで、少し嬉しい。


「本田さんには会えました?」

「会えました。この前会ったばかりなので、新鮮味はなかったですけど」

「それ本田さんに言ったんですか?」

「言いましたよ?」


 きょとんとされたので、きょとんとし返す。本田さんも同調していたのを思い出した。


「永尾さんって親睦を深めると、心の声を結構出してくれますよね」

「それ、真由に言われたことあります」

「だから、本田さんと永尾さんって仲良いんだなって、今嫉妬してます」

「し……」


 っと?

 きつねがぼちゃっと、器の中に戻った。そばつゆが周りに飛ぶ。


「……ごめんなさい」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないです」


 近くに置いてあった布巾でテーブルを拭く。なんだ、嫉妬って何かの呪文だっけ。

 いや、呪いなのでは。


「あの、つかぬことをお伺いしたいのですが」

「はい」


 急に他人行儀な話し方をしても、鷹山さんは対応してくれる。そう、なかなかこの人、寛容なのだ。

 怒り狂ってる相手を見ても、静かに対応できそう。コールセンターとか、結構向いていると思う。なんて、どうでも良い考察で現実逃避をした。

 鷹山さんは私の伺いたいことをじっと待っている。


「鷹山さんて、私のことを好きなんですか?」

「はい」

「はい?」

「はい」

「はいって、えっと」

「はい」

「どう、なに、いつから……もしかして、海獺に似てるからですか?」


 ぱっと出てきたのは、真由にも私が海獺に似ていると話していることを思い出したからだ。あれ、前に冗談で「可愛いとこが似てるんですか?」と聞いたら、思いっきり否定されたんだっけ。


「違います」

「ま、また否定された……」

「永尾さんは海獺に似てますけど、俺は海獺を特別好いてるわけじゃないです」

「なるほど……?」

「俺は永尾さんが好きなんですよ」


 なるほど。

 とはならなかった。今の話で納得出来るのは頭の良い人間だけだと思う。


「……もしかして、この前言ってた"愛情から"って、好意という意味ですか?」

「はい」

「鷹山さんって、意外にあけすけに話しますよね」

「時と場合によりますけど、譲れないなら主張するまでです」

「私の家に来た時は、逃げるように帰って行ったのに」


 責めるような物言いになってしまった。でもだって、黙ったら負けてしまうと思った。先手必勝だ。

 混乱している。


「あの時は、確かに逃げましたね。永尾さん、とても困った顔してたから」

「困った顔……してました?」

「今もしてる」


 私は混乱しているのではなく、困っているらしい。

 きゅ、と唇を結ぶ。

 きつねが器の中で浮いている。


「答えが欲しくて伝えてるんじゃないので、特別気にしないでください。長期戦は得意です」

「気にしますよ」

「じゃあもっと気にしてください。今度、酒飲みにいきましょう。二人で」


 視線をきつねから鷹山さんへ向ける。

 私の困った顔にも構わず、穏やかに笑っている。もしかしたら、私はそれに救われているのかもしれない。きっと色んな人が救われてきたに違いない。


「嫌なら断って下さい。永尾さんにはその権利がある。明日から俺のことを無視しても良いし、石井にセクハラされたと言えば俺は地方に飛ばされるかもしれない」

「そんなこと、しないです」

「する権利があるんですよ、永尾さんには。ちゃんと持っていてください。持っているだけで、俺より強くなれます」


 鷹山さんが立ち上がる。食べ終えたラーメンのトレイと、渡した紙袋を持っていた。

 鷹山さんより強くなれる。

 それってすごいかもな、と思い始めていた。

 なんて現金な思考なのだろう、と呆れるのと同時に、なんだか可笑しくて笑った。


「飲みに行きたいです、二人で」

「美味しいと噂の店をピックアップしておきます」

「人事の人って、そういうの得意ですよね。どこから情報を仕入れるんですか?」


 トレイを持ったまま、鷹山さんが口を開く。


「秘密です」


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