また連絡するね。

恋の運転の仕方


 夏は雨が多く、冬は雨が少ない。

 乾燥した冷たい空気は緊張をピンと張り巡らせている。どこかで早起きの犬が吠えた。冬の朝は美しい。



 真由に今度ひつまぶしを鷹山さんと食べに行くことを話したら、「行ってらっしゃい」とあっさり言われただけだった。少しだけ拍子抜けした。フラワーシャワーで祝ってほしいわけではない。でも、事後報告ではまた真由に尋問されるかもしれないという点を踏まえて、私は事前報告をした。

 わけなのだけれど。


「なんか外野が色々言っても仕方ないんだな、と。この歳になって分かったんだよね。ほら、恋は盲目みたいに駄目男に夢中な女っているじゃない?」


 腕を組んで話す真由。駄目男に夢中。そういう女性がいても不思議ではない。


「あいつはやめときなよって周りが散々言ってるのに全然聞かずに突っ込んで大事故になって大怪我しちゃうやつ。それと千佳たちは真反対ということにやっと気づいた」

「……それはつまり、良いの? 悪いの?」

「少なくとも大事故は起こさないんじゃない?」


 大事故が起きなければ、大怪我は追わないのだろうか。私はそんなことを考えていた。そもそも、大事故と大怪我って何の例えとして成り立っているのだろう。


「でも、恋愛なんて事故の繰り返しじゃない? 大怪我して痛い痛いって泣いたりしても、傍から見れば馬鹿じゃねーのとか思われてもさ、運転してる時は夢中なんだよ」

「大怪我しない方法ってあるの?」

「よそ見しないこと、酔わないこと、後は時々休憩する。そして道を確認する」


 人差し指を立てた。私は思わず拍手を送る。


「すごい、恋愛の手引きみたい」

「て、本に書いてあった」

「……そっか」

「あからさまにがっかりしていくれる千佳」


 けらけらと何だか楽しそうに笑う真由に、私は小さく溜息を吐くより外ない。それからこちらを見て、「ひつまぶし、美味しいと良いね」と言った。









 付き合いが淡泊だった学生時代。親友はいなかったけれど、友達はいた。好きな人はいなかったけれど、恋人がいた時がある。

 手を繋ぐことが出来なくて、「本当は俺を好きじゃないんだろ」と言われて、謝ることしかできなかった。それを相手はどう思ったのかは分からない。私はたぶん、彼を好きではなかった。告白されて、友達にも悪い顔はされなかった。それで付き合うことにした。

 学生のことだけれど、相手の彼には本当に失礼なことをしたなと今でも思う。好きじゃなかったなんて、本当に失礼な話だ。相手の好意を突っぱねる勇気もなくて、だからといって相手の好意を受け入れる器量もなかった。

 真由の言葉を、真由の読んだ本の言葉を借りるのなら、私はそのとき、相手を大事故に巻き込んだ。そして、一緒に怪我を負わせた。

 私には私の痛みが分かる。それは感じることが出来るからだ。でも、他人の痛みを知ることは一生できない。想像することしか出来ない。

 そしてそれは、「ごめんなさい」の一言では済まされないことなのだと思う。


 カレンダーを破る。12月がきた。私用の携帯の着信履歴が実家と母からで埋まっている。

 何度か電話しようと思って、結局しなかった。何をどう話せば良いのか分からないし、話したところで分からないだろうと思った。


「一年ってあっという間ですね」

「歳取るとどんどん年月が早く感じるぞ」

「ええ……」


 木戸の言葉に裾原さんが現実的な言葉を投げる。私はそれを聞いて苦笑いする。確かにその通りだったから。

 年を越したらすぐに来年度が始まる。新人研修、新しい取引先との交流、新店舗のオープン。忙しくしている間に桜を見たかと思えば夏が終わって、金木犀の香りが漂うようになる。そうして、年末がまた来る。


「私にも後輩が出来るってことなんですね」

「うん、尊敬される先輩になってね」

「……精進します」


 はっとした顔から真顔になり、PCへと向き合う木戸。裾原さんがそれを見て、「今からか」と小さく笑った。


 今天皇誕生日がやってきた。祝日と言っても、日曜日なので明日も振替休日になっている。目覚ましを消して、ベッドからずるずると出て電気ヒーターをつけた。

 ミネラルウォーターを一口飲んで、テレビのリモコンを持つ。テーブルの上に放置していた私用携帯のランプが光っているのが見えた。操作すると、昨夜母から着信があったことが分かる。

 奇跡、か。

 あの日、鷹山さんと居ると楽しいと言ったら、鷹山さんは泣きたくなると言った。全然泣きそうにないけれど。

 私は鷹山さんのことを、確かに嫌いじゃない。でも好きかと問われれば、これは何度も繰り返すけれど、嫌いじゃないという言葉がぴったりだ。真由が言った。私たちの距離はこのまま、亀の速度なんかではなく、近づかないと思っていた。近づける必要がないと。

 他人に必要以上に近づくのが怖い。普通じゃないことがばれるとか、ぼろが出るとか、手を繋げないとか。

 私は欠陥品だから。

 掌を眺める。このままじゃ駄目だとは思っている。ぐるぐる同じところを回って、飽きて、諦める。私はもう諦めていた。

 でも、鷹山さんは長期戦だと言った。意見を変えてみせる、と。私自身ですら簡単に変われない私の意見を変える、と。

 私は変われるだろうか。

 手を握りしめる。何度も泣いて、何度も痛がって、他人に馬鹿にされるかもしれないし、軽蔑されるかもしれない。それでも、前よりは良い方へ転がれるだろうか。

 海獺はその昔、カニやウニを食べ尽くしてしまうので害獣扱いされていたらしい。あんな可愛い毛繕いをしておいて、食べるものは贅沢だ。そして乱獲されてその毛皮は高く売られた。今では絶滅危惧種だ。

 私は海獺じゃないし、絶滅危惧種でもない。乱獲される心配もないし、可愛く毛繕いも出来ない。じゃあ、何が出来るのだろう。

 幸せを決める。いつしか考えたこと。

 私用の携帯が震えた。画面を見ると、鷹山さんからだった。出ると、どこに居るのか、少し雑音が入った。


「もしもし」

『おはようございます、永尾さん、今大丈夫ですか?』

「はい、大丈夫です」

『今日、の約束のことなんですけど』


 挨拶は普通だと思った。それからの言葉が少し疲れているように感じた。もしかして仕事で何かあったのだろうか。私は続きを促す。


『すみません、延期にしても良いですか?』


 少しだけ衝撃が走る。これ、前も感じたやつだなと思い出す。そう、鷹山さんが武藤さんと歩いているときの。

 私は転がっているはずもない言葉を探すように、視線をテーブルの上で彷徨わせた。



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