流れない星たち
うちは母子家庭だ。
小学生の時に母と父の離婚が成立した。私は母に引き取られた。母との暮らしが始まった。
父が家を出て行ったきり、私は一度も父には会っていない。
「人間の状態って、数字で表せると思うんだよね」
「数字って、1とか2とか?」
「プラスからマイナスから分数からルートまで様々」
「バラエティー豊か」
「そう豊か。豊かだけど、マイナスは良くない。この前、千佳はどうして普通じゃないといけないかって言ったじゃない?」
言いながら、真由は集中していた。器用だなと思う。私の爪先を真由の爪と同じ色に塗ってくれている。
真由の家は洋服が多かった。クローゼットに収まり切っていない分が外に出されている。あと、マニキュアの種類も沢山ある。
「うん、よく覚えてたね」
「あれから私、すっごい考えたんだけど」
「考えてくれたの? ありがとう」
「普通はゼロの状態なんだよ。千佳はマイナスの状態」
「なるほど」
「普通どうこうの話を一回置いておいてもさ? これから先、ずっと千佳ママがいるわけじゃないんだよ。巣立つ瞬間を逃すと、何も出来ないままだよ」
「……それは、嫌、です」
全然は視線はこちらへ向いていないのに、言葉は熱い。思わず敬語になってしまった。小指が塗られて、終わり。
「まだトップコートも塗るよ」
「え、まだ何か塗るの?」
「乾いてないから手はここ! それなら今すぐ家を出るべき」
「でもきっと、許してもらえないと思う」
「強引にでも引っ越そう。私が手伝う」
「たぶん家に入り浸ると思うし」
「住所は教えたら駄目だよ。相手はストーカーだと思った方が良いよ、束縛系彼女はストーカーになりつつある」
淡々と言われる。真由の視線がこちらを向いた。その様子に、ひとつ思うところがあった。
「真由はストーカーに遭ったことがある?」
二度瞬く。私は視線を爪先へと向けた。仕事には差し支えない程度の白。
「真由のと同じ色にしてほしい」と言ったら、嫌な顔せず了承してくれた。
「ストーカーって程じゃないけど、付き合ってた男に付きまとわれたことはあった」
「そうなんだ」
「ああいうのってさ、殺したらそこで終わるんじゃないかって一度は思うんだけど。そこからまた夢とかに出てこられたら、もっと怖くて」
「……確かに、死んだ人は怖いね」
幽霊が怖いのは生きていないからだ。生きていない人間は殺すことはできない。
人間が恐れる死を恐れない者は怖い。
でもそれって、人間の尺度の話かもしれない。幽霊は清めの塩が苦手かもしれないし。
「ちょっと待って、感想そこ?」
「うん?」
「私のストーカー話に対するコメントは何かないの?」
真由のストーカーの話に対するコメント。
「ストーカー殺したの?」
「殺してないわ!」
「じゃあ捕まったの?」
「段々興味が薄れてきたんだと思う。結局いなくなった」
「それは良かった」
唇を尖らせて、真由は何か言いたげだったけれど、何も言わなかった。私の持ってきたポッキーを摘まんで口に入れる。あー私も食べたい、でも指汚れそう。
それを感じ取ってくれたのか、真由は一本摘まんで私の口に入れてくれた。
「ありはほう」
「どういたしまして」
もぐもぐと食べて、私は決めた。
「うん、家出ることにする」
二度瞬きをした。真由の目って大きいな、とその時初めて気付いたのだった。
それでもやっぱり、小説の文章に出てくるみたいに、私の姿がその瞳に映るのは確認できなかった。
なんとなく空を見ていた。雨が降りそう。冬の雨は冷たくて、少し怖い。
実家に帰るのは、半年ぶりだった。会社からとても遠いわけではないけれど、私の家に比べれば遠い方だ。勿論知っている場所だけれど、懐かしいと思える場所でもあるけれど、酷く。
酷く、緊張する。
ここに住んできた時はそんなことは無かった。子供は自分の環境に疑問は持つことは殆どないと思う。そうだった私が言うのだから、本当だ。
幼稚園、小学校、中学校のとき、友達が少なかった。真由に言った通り、母にあの子は良い悪いと制限されていたからだ。私はそれを守っていたのは、それが普通だと思っていたから。
外の環境を知って、自分の環境を知る。
そしてそれは、私が甘えていたことも思い知ることになった。
自分で選べなかった。それは苦痛だったこともある。でも、私は自分で選ばなくなっていたのだ。その生活が長すぎて、選ばなくて良くなっていった。
「ただいま」
口から出た言葉に嘲笑してしまう。ただいまって、脳みそは無意識にもここが家だと認識しているらしい。
鍵を使って扉を開ける。中に入った途端に、家の匂いがした。きゅっと喉の奥がしまる。夕飯はおでんだと言っていた。
パンプスを揃えて、廊下を歩く。リビングへ入ると、キッチンにいた母がこちらを向いた。
「千佳ちゃん、おかえり。手洗ってきて、今出来上がるから」
きちんとした格好にエプロン。母親というイメージを人にしたら、こんな風なんだろうなと思う。
「はい」
「ちょっと待って、その服」
固い声。洗面所へ向けた足が止まった。次に続く言葉に、構える。
「そのコートの色、なんなの? 会社にそれで行ってるんじゃないでしょうね?」
「行ってるけど……」
「変よ、今すぐやめなさい。前に買ってあげたコート、まだ千佳ちゃんの部屋にあるでしょう? あれが良いわ」
笑顔を作る。振り向く。
「でもお母さんに買ってもらったコート、結構前のだし……」
「千佳ちゃん、家を出てからお母さんの言うこと、全然聞いてくれなくなったわ」
「そういうことじゃなくて」
「変な友達でも出来たんじゃないでしょうね」
ほら、まただ。私の言葉は届かない。私はどうしたら良いのだろう。誰か分かる人がいるなら教えて欲しい。
神様でも天使でも良い。
頬が痙攣する前に、洗面所へ向かう。
「手、洗ってきます」
鏡に映る自分を見る。
友達、出来た。会社で、自分のことを話せる友達を、自分のことを話してくれる友達が出来た。とても良い友達だ。それは、誰がなんと言おうと。
私はもう、自分で自分のものを選べることが出来る。
家を出て三年が経った。身に着いた習慣を落とすのは大変で、何度もくじけた。そんな自分が怖くて、怖くてたまらなかった。
鏡に映る自分は、本物か? 私が見ている幻想なのかもしれない。ここに映るのは私ではなくて、誰かに作られた偽物かも。
手を洗う。流れる水が、私を誘う。
こっちにおいで、と。落ちておいで、と。
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