味蕾たちの主張
その横顔を見ていると、急に話し始めたので驚いた。
「春先、急にそれまで美味しく食べてきたものの味が分からなくなって」
「はい」
「特に、塩味、旨味は殆ど感じない」
「……なんとなく分かってました」
「ですよね」
それを話している最中はこちらを見なかった鷹山さんだが、諦めたように言ってこちらを見た。
「永尾さんって鋭いですよね」
「え……そうですか?」
「最初にペンを貸してくれたとき、驚きましたよ」
覚えていたのか。
電車が来る。乗る車両は空いていて、私たちは隣に並んで立った。
私は鷹山さんの方を見る。
「そういえば、鷹山さんって彼女いるんですよね」
「藪から棒に」
「真由から聞きました」
「あー……振られて、今はいないです」
ぎく、と心臓が固まった。初めてこの空間に気まずさを感じる。
「なんか、すみません。えっと、うちに来たときは……」
「あの後らへんに振られました」
「そ、れは、うちに来たのが原因とか?」
「違いますよ、元々冷めていて。永尾さんは恋人いるんですか?」
「いないです」
恋人いて異性の同期を家に泊めさせるなんてことを真由はしない。それは鷹山さんには通用しなかったのかもしれないけれど。
「本当に?」
「今嘘を吐く理由とは」
「俺が振られたって言ったので、気を遣ったのかなと」
「あーすみません、酔いが回っていてそこまで気が回りませんでした」
「永尾さんってふとした時に素が出ますよね」
え、と声がもれる。電車の扉が開いて、はっとそちらを見た。降りる前の駅。
「どんな人だったんですか? 元彼女は」
「どんな……うーん……」
「あ、傷心中ですか? この話題は避けますか?」
「いや大丈夫です。そうですね、元気な人です。何事にもポジティブで、きちんと目指すものがあって」
正直言ってくれるとは思わなかったので、驚く。鷹山さんから恋愛話を聞くなんて。
いや、聞いたのは私だけど。
電車が揺れる。
「鷹山さんて良い人ですね」
「そう?」
「振られた相手のこと、良く言えるなんて」
「そうやって株を上げてるんですよ」
「え、誰に対してですか?」
「永尾さんに対して」
電車が止まった。じゃあ、と鷹山さんが頭を下げた。おやすみなさい、と私も頭を下げる。
流れに乗って電車から吐き出されるように出る。一度だけ電車の方を見たけれど、鷹山さんの姿は見えなかった。
永尾さんに対して。
そんなに意味のある言葉ではないのかもしれない。というか、酔った勢いで口から出ただけだろう。深い意味はないはず。
母から着信があった。昨夜だ。
ずるりと毛布から抜け出して、携帯を手に取る。電話をしようかどうか迷って、やめた。
朝ご飯を食べてからにしよう。
少し肌寒い。近くに放っておいたカーディガンを羽織って、キッチンへ行く。やかんに火をかけて、テレビを点けた。
『おいしーい、舌の上でとろけますう』
グルメリポーターが食リポをしている。今や何だって舌の上でとろける世の中。
ソファーに座ってそれをぼーっと見る。
鷹山さんはこういうの観ても楽しくないんだろうな。でも、舌触りとかは分かるのかも。ビールは喉越しだという人もいるし。
沸騰したやかんのお湯を使ってインスタントコーヒーをいれる。一口飲むと、眠気が飛んだ。
携帯で母に電話をする。
「もしもし」
『千佳ちゃん? どうして昨日の夜出てくれなかったの?』
「ごめんなさい。飲み会があって」
『山川さんが来て、旅行に誘われたのよ』
山川さんとは確か、実家の近所に住むおばちゃんだ。母よりも少し年上だった気がする。
「良いんじゃない。行ってくれば……」
『でも、もしも千佳ちゃんに何かあったら心配じゃないの。ちゃんと断ったわ、だから安心して』
きゅ、と喉が閉まるのを感じた。角砂糖をコーヒーの中に落とす。
ひとつ。
「……そっか。でも、今まで何かあったことなんてないし、」
『千佳ちゃんは私が心配じゃないの? 最近なんだかスーパーに行くのも疲れるようになってきちゃったのよ』
ふたつ。
「……そうなんだ、お母さんいつも頑張ってるもんね」
『そうよね、私頑張ってるでしょう? この前もね……』
通話が終わった頃には、角砂糖がみっつコーヒーの中に埋もれていた。携帯をテーブルの上に投げて、ぐるぐるとスプーンでかき回す。ミルクじゃないから色は変わらない。でもきっと、ゲロ甘になっている。
疲れると、脳味噌は甘いものを欲するらしい。それをごくごくと飲み干す。
マグカップをシンクに出した。
「今日は豚の角煮だ」
甘ったるいやつ。
くそ甘ったるいやつ!
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