海のカワウソ


 そういえば恋人がいるんだっけ、留めて申し訳なかったな。

 そんなことを考えたのは、会社近くのカレー屋。スプーンを止めた私を見た真由は目をぱちくりとさせた。何か、と視線が尋ねている。


「辛味って味覚じゃないんだよね」

「そうなの? じゃあ五味って……甘いの酸っぱいの苦いの塩っぱいの」

「旨味」

「うまみ?」

「うまみ」


 ひひーん、と真由が真面目な顔をして言うので、カレーを吹き出しそうになった。けほけほと噎せながら、水を飲む。


「あれか、昆布とかに入ってるみたいな。じゃあ辛味って何なの、味じゃないってこと?」

「痛覚らしいよ」

「へえー、口の中って忙しいのね」


 ひどく感心して呟く。確かに忙しい。

 私たちの身体は毎日、毎時間、毎秒、留まることを知らない。感知して変化して、一定に保とうとしている。

 伸びた爪を見て、帰ったら切ることを決めた。


「そういえば、鷹山さんちゃんと出社してる?」

「してたよ。別に襲われなかったでしょう?」

「その心配は元々してないけどさ」

「確かに、むしろ襲われそうだよね。ルックスは悪くないし背も高いけど、ひょろっとしてるし」


 真由のタイプとは反対だとよく分かる。私はスプーンを口に運んだ。

 でも確かに、細かった。でも、近所のおばさんみたいにご飯を勧めてしまったのは良くなかった。次会ったら気まずいなと思っていたけれど、この間すれ違って「この前はお邪魔しました」とご丁寧に頭を下げられた。それで気まずいという思いは吹っ飛んでいる。


「真由って鷹山さんと仲良いの?」

「まあ、うちの部の唯一の同期だから。千佳の同期でもあるって言ったでしょ」

「いや、同期って知らなかったし、なんか年上って感じがしてた」

「確か2個上だったかな」

「年上じゃん……」


 そういえば真由は普通に鷹山さんのことを呼び捨てにしていた。私には出来ないことをさらっとやって退けるのが真由だ。

 私は食べ終えたカレーの皿の上にスプーンを置いた。水を飲んで、テーブルに腕を置く。


「本人に聞いたら何て呼んでも良いって。千佳も鷹山って呼んでみなよ」

「私はいいよ。呼ぶ機会もないと思うし」

「今度一緒に飲みに行く約束したよ?」

「え?」

「お礼だって。あたしと千佳一緒にどうですかって」


 聞いてないんですけど!

 真由も食べ終わって伝票を持った。財布を持って立ち上がる。「まーまー」と恍けた顔を見せる。


「いーじゃん、奢って貰えるんだから」

「真由だけ行ってきなよ」

「千佳チャン、それ本気で言ってる? あたしがタイプじゃない奴と二人で飲みに行くと思う?」

「……思わない」

「ね、だから一緒に行こ?」


 おねがーい、と手を合わせる姿に溜息を吐く。つまり真由はタダ飯を周りから変な目で見られるという柵無く食べたいわけだ。

 まあいっか。てきとーに飲んでてきとーに話して帰ってくれば良い。話は真由が回してくれるだろうし。


「いーよ」


 と返せば、「よし!」と言いながらあたしの分のご飯まで払ってくれた。お礼を言って、本社に戻る。






 いーよ、と言いながら私はそれをすっかり忘れていた。来月、新店舗が都内にできるということで、宣伝課は結構多忙だ。課長は目が回ると言いながらコーヒーを飲んで、カフェイン中毒となりつつある。

 ようやく一段落して、社食へ向かう。ああ今日もきつねそば……。


「おはようございます」

「あ、おはようございます……」

「今日もラーメンですねって顔に書いてあります」

「今ちょうど書いたとこでした」


 鷹山さんが笑う。笑うとえくぼできるんだな、と気づく。

 今日もラーメンを食べるらしい。


「俺もラーメンですけど、永尾さんもきつねですね」

「きつねです」

「でも永尾さんってきつねというより」


 トレイを置いた。この前と同じ、斜向かい。


「海獺」

「らっこ……?」


 海獺ってあの、石をお腹に乗っけて貝をそれにぶつけて食べたりするあれ? 海獺なんて実物を見たことがない気がする。動物園? 水族館にいるの? いやそもそも日本にいる動物なの?

 私の疑問を置いてけぼりにして、鷹山さんはラーメンを啜り始める。なんだかタイミングを逃してしまって、聞けなくなってしまった。私もきつねそばを啜る。

 何も会話しないまま昼食をとり終わる。こんな近距離で食べているのに、変なの。


「鷹山さん」

「何ですか?」

「辛いのはどうですか?」


 鷹山さんは苦笑して、「どうですかね」と鸚鵡返しする。質問の意図がみえないというより、カマにはかかりませんよという真意が見える。


「今、宣伝課忙しいですよね。暇になったら教えてください」

「あ、はい」

「石井にも言ったんですけど、奢ります」

「あー! はい、忘れてました」

「忘れてると思ってました」


 真由に「早く予約を取り付けてこい」とでもどつかれたのだろうか。返却口にトレイごと置くと、鷹山さんは携帯を取り出した。また誰かから連絡が来ているのだろうか。この人も、というか人事部も比較的常時多忙だと私は思っていた。

 その姿を見ていると、こんこんと細い指でディスプレイを叩く。


「永尾さんの連絡先教えてください」

「社内名簿に載ってますよ」

「いや、プライベートの方を。社内メールで飲み会の予定聞いても良いですか?」


 笑われた。そりゃダメですね、はい。

 私は会社のPHSしか持っていないことに気付いた。


「すみません、携帯かばんの中です。真由にでも聞いてください、言っとくので」

「わかりました」

「鷹山さん、あの」


 社食の出口へと二人で向かう。出たところで、鷹山さんが振り向いた。


「どうして海獺なんですか?」




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