嘘偽りのない道


 一月が終わろうとしていた。私はふとカレンダーを見て破ろうかどうしようか、迷っていた。最近、鷹山さんの家に入り浸っているので、なんだかカレンダーを破る機会を失いそうで。

 新しい年のカレンダーは海の生き物の写真が載っているもの。表紙にあった海獺が可愛かったので、なんだか買ってしまった。

 迷って、結局破るのは止めた。一月のシロクマも可愛いし、過ぎたのを思い出した頃に破れば良い。カレンダーに背を向けて、電気を消した。




「この前、とても美味しい洋食屋に入ったって石井がすごい自慢してくる」


 お昼の街を散歩するバラエティー番組を見ていると、ソファーに座っていた鷹山さんが言った。


「会社の近くだったよ」

「何食べた?」

「私はオムライス、真由はビーフシチュー。次行ったらカツレツ食べるのー」

「それも決めてるのか……抜かりない」


 くすくすと笑って鷹山さんは肘かけに肘をかける。私はそれを見上げて、隣に座った。


「今日の昼食、何にします?」

「オムライス食べたくなった」

「私も!」

「永尾さんの作った」

「ええ……オムライスかあ、作ったことない」

「永尾さんにも作ったことのないものが」


 それは勿論ある。自分の嫌いな料理は作ったことないし。しかしオムライスは好きだけれど、作ったことが無かった。上手く作れる自信がないから。


「うちの母が」


 考えたものが纏まらないうちに口から声になって出た。

 鷹山さんがこちらを見る気配がした。私の視線はテレビの中のタレントたちが食べ歩きしているのに向いている。


「オムライス作るの、とてもうまいんです」


 記憶の引き出しを開けると、そこには温かい光景。卵の切れ目の見られない綺麗なオムライス。私はそれがとても好きで、でもいつも、それを切り開くのに勇気が要った。だから、なんとなく作る自信がなかった。

 それで出汁巻き卵ばかり作っていたのかも。

 ふと我に返る。


「私にもうまく作れますかね?」


 こちらを見ていた鷹山さんと視線が絡む。


「千佳さん」

「うん?」

「別にうまくなくて良い」

「え」

「不味い料理を食べて笑い合うのも悪くないよ」


 世界のどこに。

 世界のどこに、こんなことを言ってくれる人がいるだろう。

 不意に泣きそうになって、立ち上がる。急に立ち上がった私に驚いた顔を向けて見上げる鷹山さん。潤む視界を瞬きでどうにかやり過ごす。


「それなら、卵」

「卵?」

「卵、買いに行かないと。行ってきます」

「俺も行く」






 家を出て、鷹山さんの家の最寄り駅まで行く。駅直結の大きいショッピングモールがある。入口付近に新しいコーヒーショップが出来ていた。良い香りに一瞬立ち止まると、鷹山さんが笑っていた。


「コーヒー飲んで行こうか」

「わーい」

「喜び方が典型的」


 ついこの前出来たばかりらしく、結構並んでいる。テラスにテーブルとイスがいくつか置いてあるけれど満員だ。並んでいる間にメニューを見て決める。


「あ、ソイラテがある」

「永尾さんはソイラテが好きだね」

「鷹山さんはドリップコーヒー?」

「ご明察」

「今目に入ったものを言ってみただけ。コーヒーに詳しい人が上司にいてね、裾原さんって言うんだけど」

「知ってる、本田さんと同期の」

「同期で仲良しなの。この前後輩の男子がカフェオレとラテを間違えて買ってきたらその日とても不機嫌だった」

「気持ちは少し分かるかもしれない」


 鷹山さんに知らないことはないらしい。私は顔を見上げる。

 メニューを見上げていた鷹山さんがこちらに顔を向ける。


「例えば今日、和食の気分だなってところに脂っぽい中華がきたらどうする?」

「げんなりする」

「それと同じ……聞いてます?」

「聞いてます。テラスの席空いたので取ってくるね」

「ああ、ありがとう」


 私は列から外れてテラスの方へ行く。ちょうど空いた席に向かうところで、後ろから肩を掴まれた。

 振り向いてその人物を確認する。その人を見て、目を瞬く。

 どうして、ここに。


「千佳ちゃん、何やってるの?」


 喉の奥がきゅっと閉まる。

 肩から手が離れて、手首を掴まれた。パチパチと弾ける。炭酸が弾けるようなそれとは違う。弾けているのは火花だ。火花が散って、記憶に火がつく。

 燃えたのは、記憶か思いか。


「こんな所で、何してるの? うちに帰ってくる余裕ないって言ってたじゃない」

「お母さん、手……」

「さっき男の人と一緒にいるの、見たわ。誰なの、あの人」

「手……」

「千佳ちゃん、聞いてるの!?」


 母の大きな声に周りから聞こえていた音が一瞬消えた。周りから注目されているのが分かる。大衆の視線よりも、私は心配なことがあった。

 皮膚の出ている手首に直に伝う自分じゃない体温。


「永尾さん」


 ぴくりと震えたのは母の肩だった。私の方は心臓がバクバクしている。

 私の方に立ったのは、鷹山さんだった。


「千佳ちゃん、家に帰ってきなさい。男の人と遊ばせる為に一人暮らしを許したわけじゃないわよ」


 その言葉は右から入って左から出て行った。それよりも、鷹山さんの方が私は気になった。ちゃんと紹介を、いや説明を、何か言わないと。

 手首から伝う冷たい体温に、思考が奪われる。


「離し――」

「挨拶が遅れてすみません」


 やんわりと私の前に立ち、腕を掴んで解いてくれた。物腰柔らかな鷹山さんの声。会社にいる時によく聞く声だった。


「千佳さんとお付き合いさせて頂いてます、鷹山慶一と申します」


 きっとその声の最後には、にこりと笑顔が付け加えられているに違いない。見ていないのに、それが分かった。鷹山さんの向こうに居る母の方を見る。


「私は千佳と話をしてます。貴方がどこの誰だか知りませんけど、そこを退いてくださる?」


 母は引かない。鷹山さんのことは見ずに私の方を見ている。確かに、鷹山さんの顔が高い所にあるには違いないけれど。

 手首を無意識に反対側の手で掴んでいた。


「それはまた、今度にしませんか」


 冷たい風が吹く。三人だった世界から引き戻すように、周りの音が入ってきた。近くの人たちがこちらを窺いながらひそひそ話している。母も同じことを思ったようで、息を静かに吐いたのが分かった。


「今日は帰ります。千佳ちゃん、ちゃんと家に帰ってきて。話をしないといけないわ」

「……はい」


 それだけ言うと、母はこちらに背中を向けて行ってしまった。鷹山さんがそれを目で見送って、こちらを振り向く。その顔が見れなくて、お互いの靴の間を視線が行ったり来たりしている。


「あ、そういえば」

「うん?」

「コーヒー忘れてた……」


 鷹山さんは列の方を見る。列は先程よりも長蛇になっていた。


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