勇気のある場所
炬燵でぬくぬくしていると、来世が猫でも良いなと考えてしまう。来世なんてあるかも分からないのに、たまにそういう、あったら良いなということを考える。
本当は、今世だけで十分だけれど。
「お昼の、ごめんなさい」
でも、一度しかない今世で私はそれを口にするのにどれだけ時間がかかったことか。温かいお茶の入ったマグカップに手を添えていた鷹山さんが数度瞬いた。
「俺は何か謝られるようなことをした?」
「え、っと、母が……あの人、私の母なんだけど」
「それは見てすぐに気付いた。顔がすごく似てた」
「うん、母が鷹山さんに失礼なことを言って」
「いや、それは俺の方だと思う。自分の娘と話してる時に知らない男が入ってきたら驚く」
驚くなんてマイルドな言い方になっているが、あれは敵意だった。私は思い出して手首に触れる。
昼に母が出現してから、私の中でぐちゃぐちゃした思いが渦巻いていた。ショッピングモールで雑貨を見ていたけれど、鷹山さんの声にも上の空だった。
「今日、やっぱり家に帰っても良い?」
人生史上最大の我儘を口にした。鷹山さんは嫌な顔ひとつせずに「わかった」と言った。それから「俺もついて行って良い?」と。
結局うちで昼ご飯がずれ込んで、夕飯がオムライスになった。
私にとって、ここはお城であり、巣であり、唯一安心できる場所だ。私だけの場所のはず、だった。今は普通に鷹山さんが出入りしていることに違和感もなくなっている。
他人なのに、他人じゃない。私の分身でもなく、血が繋がっているわけでもない。私にとって鷹山さんは鷹山さんだ。
この人と、どうなりたいのか、何度も考えた。好きじゃないと何度も思った。前に鷹山さんが『泣きたくなる』と言った。その気持ちが、今なら分かる。
こんなに欠陥のある私と、どうして一緒にいてくれるのだろう。嬉しい反面、いつも不安で、なんだか泣きたくて、でも楽しいから笑っていた。それからやっと、私の感情はひとつずつ混ざっているのかもしれない、と気付いた。
「千佳さんが謝ることはひとつもないから、そんな世界の終わりみたいな顔しないで」
鷹山さんが苦笑しながら言う。私が炬燵の中で足を動かすと、鷹山さんの足にあたる。「冷たい」と言われて、足を掴まれる。
「あしがとられた」
「これこそ揚げ足を取る」
「からっと揚がってました?」
「千佳さんの足を油に突っ込むわけには」
と言いながら鷹山さんが足の指の間のツボを押してくる。足の血行を良くするツボらしく、たまに足を取られて押される。気持ち良いとかではなく、結構痛い。
「いた、いたたたたた」
「危ない」
「ぎゃ」
ひっくり返るとガツンと音を出してテーブルに頭をぶつけた。痛い。ひっくり返ったまま天井を見ていると、鷹山さんが覆い被さる形で視界に入る。
「大丈夫?」
「ううん、痛い」
「どこ」
「あし」
一瞬焦った鷹山さんの顔が安堵へと形を変える。ぐっと背中の後ろに手が入って、起こされた。その反動を利用して、私は鷹山さんの胴へと抱きつく。
額を鎖骨下に押し付けると、鷹山さんの手が私の背中を擦った。
「そんなに痛かったのか、ごめん」
「違う、ちがうの」
抱きついたまま、言葉を探す。私の思考はいつもゆっくりでいつも纏まらない。
鷹山さんはそれを待ってくれている。
「うち、父と母は離婚して、母子家庭で。昔から母は、私のいろんなことを決めてきて。どんな子と遊びなさいとか、どんな服を着なさいとか」
「それは、いつまで?」
「大学までずっと」
背中を擦る手が一瞬止まって、再度動く。引かれただろうか。でも、何をどうしようとそれは私の過去なので、変わることはない。
でも、仕方がないと割り切れない気持ちもあった。これが他人と違うことで、鷹山さんがどういう気持ちになるのか、想像がつかない。世間には嫁姑問題のように、相手の家族のことで別れる人々だっていると言うし。
「こういうのなんて言うんだっけ、真由が言ってた……」
「過干渉」
「あ、それだと思う」
「それで、千佳さんを家に戻そうとして追いかけて来てると?」
「いや、たぶんあそこに居たのは偶然で……。私、年末年始に実家に帰ってなくて、それも引っかかってたんだと思う。結局、私が悪いんだけど」
ここまで逃げて、そのツケがきた。そして鷹山さんを巻き込んだ。
事故になったけれど、大怪我にならずに済んでいる。今は。
「悪いか悪くないかは、俺には判断できないけど」
ぎゅ、と腕の力を強める。続く言葉が怖くて、聞きたくない。
そうして抱っこ人形のようになっていた私は、腕を掴んで剥がされる。
「これからどうする?」
鷹山さんは尋ねる。
これからのことを。
「うん?」
「家出て日々の干渉からは脱した。でもあの様子だと、千佳さんの人生にはきっと干渉し続けると推測する」
「……うん」
私はじわじわ歪んだ視界から、滴が落ちていくのを感じた。
ぐずぐず泣く私を見て、苦笑する。
「前に電話した時泣いてたのも、この前吐いたときも、この関係が原因?」
頷くと、鷹山さんの手が私の両肩に乗った。向き合って、視線が絡む。親指で左の涙が拭われる。
「そんなくらい顔しなくても」
「……でも」
「一人じゃない」
トントンと音が聞こえた。最初は秒針の音だと思ったけれど、自分の心臓の音だと気付いた。
私は欠陥品だ。心臓も、身体も精神も丈夫。でも、私がそう思う限り欠陥品だ。
「俺がいますよ」
あの日、泣いていた夜も、鷹山さんはそう言ってくれたことを思い出す。欠陥品の私に、それは欠陥じゃないと言ってくれた。私のお城であり、巣であり、安心できる唯一の場所で、健やかに眠っていたのは鷹山さんの方だった。
きっと、これから年をとってボケても、鷹山さんと大喧嘩しても、もしももしも別れてしまったとしても、それは絶対に忘れないだろう。私はそのひとつずつに救われた。
「鷹山さん、ありがとう……」
「いやまだ何も、始まってすらいない」
「ううん。ありがとう、ございます。私は、真由に出会わなければ人生は変わらなかったと思う」
「うわ、石井には勝てない……」
「でも、鷹山さんに出会わなかったら、私は私の中にある感情を全然知らないままだった」
心臓が動いている。ただそれだけ。それだけだけれど、欠陥はあるけれど、私は生きている。
足掻いて藻掻いて、何も掴めないかもしれない。変わらないかもしれない。でも、それは未来の話だ。過去は変わらないけど、未来はいくらでも変えられる。
「たくさん勇気をくれて、ありがとう」
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