かくなるうえは


 夜風が冷たい。油断をしているとまた風邪をひきそうだ。

 木戸は違う線なので、改札を通って別れた。私と鷹山さんはいつもの通り、同じホームに並ぶ。鷹山さんも寒いのか、手をポケットに入れていた。


「今日は御馳走様でした」

「いえ、そんな改まって言われる程の額でもないですし、急に呼び出したのに来て頂いてありがとうございます」

「木戸さんと永尾さんの関係性が見られて楽しかったです」


 それは良かったというか、楽しまれていたらしい。私は身じろぐ。

 考えてみれば、自分の部署以外の人間関係って知らないかも。きっと真由や鷹山さんにも後輩はいるだろうけど、全然知らない。


「私、怒るのが苦手で。学生のときのアルバイトとかで後輩が入って、ミスしても怒らないから舐められてっていうの結構あったんですよ」

「キツイこと言わないのは、楽ですもんね」

「そう、そうなんですよ。でも、木戸は注意するだけで次からは気を付けてくれるので、私の方が助かってます」


 なんとなく言い訳のように言ってしまった。私のやり方が温いと言われる前の予防線。鷹山さんはそんなことは言わないと思っているけれど。


「二人が信頼し合ってるのは永尾さんのやり方があってるからだと思います」

「人事の方から見ても?」

「はい。自信をもって言えますね」


 それがおべっかかそうでないか、私はもう区別できるところまで鷹山さんのことを知ってしまった。それが何だか擽ったい。

 電車が止まり、二人で乗り込む。ちょうど人の少ない車両に当たり、私たちは隣り合って座る。こうして隣り合って座ることは初めてだった。

 いつも正面か、斜向かいに座ってるから。


「鷹山さんは後輩いるんですか?」

「いますよ。というか、教育研修が主なので」

「人事部にも教育が必要なんですね……」

「最初からなんでも出来る人間はいないですから」


 鷹山さんは笑った。確かに、と今でもなんでもは出来ない私も思う。


「教育する立場として何かアドバイスをください」

「永尾さんはそのままで良いと思うけど」

「今後手強い相手に立ち向かえるように」

「そうですね……。近畿本社で勤務してる上司が、前に言ってたことなんですけど」 

「はい」


 背筋を心ばかり伸ばす。有難きお言葉なので。

 電車が駅に停まり、車両内の少ない人がパラパラと降りていく。私たちはこのまま車両に残る。


「その上司、副社長にヘッドハンティングされてきたらしいんですよ」

「すごい。そんな人いるんですね」

「驚きですよね。転職前の会社で、同期が自殺をしたらしいです」

「……それは」

「同期のしたミスに、上司が何か強く指摘したとか。会社自体もブラック色が強かったみたいで、全責任が上司にあるとは言えませんけど」


 鷹山さんはこちらを見ていなかった。私も手元に視線をやる。姿勢だけは良かった、と思う。


「強く指摘したという部分を俺は詳細に聞いたわけではないのですが、その話を聞いたとき、自分の言葉が人を殺すこともあるかもなと初めて思いました。……重い話になりましたね、すみません」

「いえ、今の話、忘れません」

「俺も、忘れられません」


 組織の中に長年いれば任される仕事も増える、新人の面倒もみるようになる、他人と関わることが増える。後輩の代わりに頭を下げることだって、これから幾らでもあるだろう。私はきっとそれを苦にはしない。でもやり方が合ってるのかと言われれば、それはよく分からない。

 私が、上司の言葉ひとつに嬉しがったり落ち込んだりするように、後輩にとってもそういうものかもしれない。


「なんというか、自分が今ここにいるのって様々な選択の上だって言うじゃないですか」

「言いますね」

「他人もそうなんだって、忘れないことが大事だと思います」


 次停まれば、私の降りる駅だ。

 鷹山さんの方を見ると、私の手元を見ていた。何か、と手を開いてみせる。


「永尾さんて、指触るのは大丈夫なんですか?」

「指? ええ、たぶん」

「触っても良いですか?」


 手を繋ぐのが怖いことを踏まえての話なのか。私の指に触ると良いことでもあるのか。よく分からないけれど、拒否する理由もないので了承した。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 長い指が私の指に触れる。人差し指にするりと触れ、離れていった。


「なんですか?」

「この前一緒に飲みに行ったとき、永尾さんが触っていたので。どういう気持ちなのかと体験してみたくなりました」

「え、私が私の指を?」

「永尾さんが俺の指を」


 そんなことしてたっけ。記憶を呼び起こすも、全然思い出せない。


「気持ち、分かりました?」

「全然」

「触り損ですね」

「それを言うなら、永尾さんの触られ損じゃないですか?」


 そうかな? と考えている間に、電車が緩やかな速度へと落ちていく。反射的に立ち上がり、鷹山さんの方を振り向く。


「お疲れ様でした」

「はい、お疲れ様でした。あ、今度中部に出張があるんですが、何か欲しいものあります?」

「え、中部? もっと早く言ってくださいよ!」

「それ心の声ですか?」


 私は中部土産でパッと思いついたものを口に出す。


「ういろうが良いです」

「ういろう」

「この前名古屋に行ったときに買い忘れちゃって、次行ったら買おうと思ってたんですよ」

「わかりました、気を付けて」

「鷹山さんも気を付けて行ってきてください」


 扉が開いて、私は電車を出た。やっぱり寒いな。

 改札を抜ける。定期を鞄にしまうとき、携帯が光るのが見えた。見てみれば、母からの着信が数件。

 いい加減、折り返さないと駄目かも。この前も夜に着信があったことに翌朝気付いたけれど、折り返していない。

 ボタンを押すと、コール音一回目で出た。


『千佳ちゃん、何してるの?』

「今、家に帰る途中で」

『何時だと思ってるの? 最近全然電話に出てくれないし、家にも来てくれないし、もしかして遊んでるの?』


 そう来たか。

 私の片頬がひく、と痙攣した。今日は先方の頭を下げに行って後輩のフォローをして同期の話を聞いた。遊んでいる暇なんてない。


『千佳ちゃん、聞いてるの?』

「聞いてます、ごめんね。仕事が忙しくて家に行く暇がなくて」

『今週の土日には帰って来られるでしょう? 家に帰る暇くらい社会人なんだからちゃんと作りなさいよ』

「でも、お母さん」


 こういう時、いつも私は水の中にいる気がする。

 私は何かを言った。ちょっと聞き取り辛い。母が何かを言う。もっと聞き取り辛い。ごぽごぽ、と水の中に意識がある。


『千佳ちゃんが来られないならお母さんが行くから。住所教えなさい』


 母もそうなんだと思う。私の声が届いてない。私の気持ちが届かない。

 昔はそれがとても嫌だった、気がする。どうだろう、あんまり母のことは思い出したくなくて、思い出さないうちに色んなことを忘れていった気もする。

 甘いものが食べたい。きっと幸せは甘い味をしているはずだ。だって、甘いものを食べると幸せな気持ちになるから。

 塩辛い海は、苦手だ。




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