願える幸福者よ


 その日はそう遠くなかった。

 秋も深まり、私は秋刀魚を食べる夢を叶えた。そのすぐ後に、鷹山さんに出会った。やはり食堂にて。


「お久しぶりです」


 あの不味さに振り切れないようなきつねそばの味が恋しくなって食堂へ行ってしまった。

 少しぎこちない笑顔を作った鷹山さんは、私が捨ててと言ったタッパーを持っていた。それを差し出してくる。


「これ、やっぱり返さないといけないと思いまして」

「あ……どうもありがとうございます」


 綺麗に洗って返されたタッパー。私はそれを受け取って、鷹山さんを見た。

 顔色はいつも通りだ。細さも前と変わっていない。そんなことをチェックしている自分に気付き、衝撃が走る。

 私は鷹山さんの言った『愛情からです』という発言より先に、『同情からですか』という言葉の方を先に考えなくてはならなかった。

 鷹山さんの対する心配は同情故なのだろうか。

 いつもの通り、まずいラーメンの乗ったトレイを見る。


「ずっと思ってたんですけど、鷹山さんってラーメンが好きなんですか? それともこのラーメンだから食べてるんですか?」

「ラーメンは好きですけど、別にこのラーメンを食べたいと思ってるかどうかと言われると、はっきりした返事は出来ないですね」

「その返事がとてもはっきりしてます」

「そうですか?」


 私だって例に漏れずいつも通りきつねそばを食べているわけだけれど。

 ぎこちない笑みが緩んだ。それを見て、少しだけホッとする。

 各々麺を啜る。美味しいとは言えない麺を。


「永尾さんはきつねそば、好きなんですか?」

「いえ。ランチが無いので、妥協してきつねを食べてます」

「他の選択肢は無いんですか? コンビニで買うとか、他のとこで食べるとか」

「んー、でもまあ、毎日食べなきゃいけないわけでもないので。あと、空いてる場所が好きなんです」

「ああ」


 そんな感じがする、と鷹山さんは零すように言った。


 食堂を出て、休憩室の前で足を止める。「私、紅茶を買います」と言って会釈をした。鷹山さんは何も言わずに一緒に自販機の前まで来る。


「これですよね」

「そうです、いつも、の……って鷹山さんも飲むんですか?」

「いえ、永尾さんの分です」


 ちゃりんちゃりんと自販機に入れられた硬貨の音。迷わず押された紅茶のボタン。がこん、と缶紅茶が出て来る。

 屈んでそれを取った鷹山さんが、私に差し出す。


「え、あ、お金を」

「いいです。卵焼きのお礼です」

「……それなら」


 ありがとうございます、と受け取る。缶紅茶は温かく、両手でそれを包んだ。


「嘘です。今度ちゃんとお礼させてください」


 鷹山さんが苦笑しながら言う。私は顔を上げて首を振った。


「要らないです、私は私の欲しいものを貰ったので」

「そうですか? じゃあ今度、石井も誘ってまた飲みに行きましょう」

「そんな、それは……狡いです」


 真由を誘えばきっと来る。そしたら私もまた半強制的に連れて行かれる。そりゃあ、二人と飲みに行くのは嫌ではないし、寧ろ楽しいけれど。


「鷹山さんは楽しんでないのにお金出すなんて、なんか筋違いな気がします」

「俺が楽しくないって、言いました?」


 きょとんとした顔で尋ねられ、はっと我に返る。

 私は今、自分の意見を押し付けていた。


「……ごめんなさい」

「え、どうして謝るんですか。怖いんですが」

「いま、鷹山さんの幸せを決めつけようとしていました」

「今、この一瞬で?」


 こくりと頷けば、鷹山さんは近くの椅子に座った。そして腕を組んで何かを考える顔を見せる。

 何か、は私には分からないけれど。

 手の中で缶紅茶を転がして、それを見ていた。


「今、自分にとっての幸せを考えていました」

「しあわせを?」

「永尾さんが考えてくれた幸せは、どんなものだったんですか」


 その言葉を聞いて、どうしてこの人はこんなにも穏やかなのだろう、と疑問が浮かぶ。純粋な興味と、好奇心と、やはり疑問だ。

晴れた日の水溜まりみたい。

 荒立つこともない。でも、同時に荒立たせてはいけないとも思う。

 長靴を履いているからといって、その水溜まりに軽率に足を突っ込んではいけない。


 携帯のバイブ音が聞こえた。鷹山さんがポケットからそれを出して、相手を確認する。


「すみません、戻ります」

「あ、こちらこそ、足止めしてしまって」

「俺が勝手について来ただけです。じゃあ、また」


 こちらに背中を向けて、鷹山さんが携帯に出た。私も腕時計を確認する。こちらも少しで昼休憩が終わる。

 ここで、もう少し考えよう。

 鷹山さんに同情しているのか。鷹山さんの幸せは何なのか。私と鷹山さんはどこが似ているのか。どうしたいのか。どう思っているのか。

 捻って捩っても、答えは全然出なかった。仕事がまだ残ってる。戻らないといけない。

立ち上がって、飲み終えた缶をゴミ箱に捨てた。





 家に帰ると、母から着信が入っていることに気付いた。折り返そうかと、考えて止めた。

 私の幸せは何だろう。電気を点けながら考える。

 大人になったら、きっと幸せになれるのだろうと信じていた。信じて疑わなかった自分がいる。

 働いてお金を稼いで、家を出る。そしたらきっと幸せになれる。

 でも、それはどこか遠くの話だった。

 私は私の幸せを決めないといけない。他人の幸せを決めつける前に、私はもっとちゃんとしないと。

 窓の外は雨が降っていた。冷たい雨だ。

 厚いカーテンを閉めて、明るい部屋の中、私は目を閉じた。



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