愛情表現の相違


 「味覚障害」で検索すると、色んな結果が出てきて、読むのをやめた。

 きっと鷹山さんはずっと前にこれを検索しただろうし、治す方法を見たと思う。私にはその責任が負えない。

 ただ、ちゃんと塩っぱくない卵焼きを作りますとも。

 本田さんに頂いた辛子明太子を入れて、くるくると手前に巻いていく。一人暮らしをしてから何年も出汁巻き卵は作っているので、失敗することの方が少ない。その少ないうちの一回に、鷹山さんは奇跡的に当たってしまったのだけれど。



 いつもの時間に食堂に行けば鷹山さんは椅子に座っていた。天気の良い今日は更に社食を食べる人は少ないのだろうか、人が殆どいない。今日は、ラーメンの乗ったトレイを前にしてはいない。


「お疲れさまです」

「お疲れさまです。すみません、バタバタしていて」


 鷹山さんはなんだか、この前エレベーターで見かけた時よりも細くなっている気がした。秋は人の出入りの激しい会社だ。最近、真由とも会えていないので、人事は忙しいのだろう。

 私はきつねそばの乗ったトレイをテーブルに置いて、一緒に乗っけていたタッパーを差し出す。きちんと割り箸もつけた。勿論、中は卵焼きだけだけれども。


「どうぞ、お食べください」

「ここで、ですか?」

「だってタッパー返す時、絶対洗ってくれるでしょう。そんな暇があるなら休んで欲しいんです」

「そんなの誤差だと思いますけど」

「私も食べたいので分けてください」

「それが狙いですね」


 鷹山さんは笑って、タッパーを開ける。私は社食の箸を持って、きつねそばを啜る。でも、視界の端でその様子を捉えていた。

 「いただきます」と言って手を併せ、割り箸を割る。綺麗に割れたことに、私の集中は逸れた。鷹山さんは静かに卵焼きを口に入れて、もぐもぐと咀嚼をした。


「本田さんから頂いた辛子明太子と、刻んだ大葉を一緒に入れて巻きました。今回はきちんと醤油の量も間違えてません」

「とても美味しいです」


 そう言うと思った。

 鷹山さんはもぐもぐと咀嚼してごくりと嚥下した。一口大に切った卵焼きを次々に口に運んでいく。私は箸を置き、タッパーの蓋を持って、それを制した。


「……もう終わりです。私の分がなくなります」

「え、まだ半分以上も」

「意地悪をしました。私もどうしてこんなことを鷹山さんにしたのか分からないし、どうして鷹山さんが私に卵焼きを作ってほしいと言ったのかも分かりません」


 卵焼き器を持ってこれを大量生産している私はずっとそれを考えていた。

 鷹山さんにとって、多分食べることは苦痛だと思う。私がもしも殆ど味覚を感じられなかったら、と考えたら、それは明らかだ。

 黙った鷹山さんは、ごくりと嚥下をした後、タッパーの蓋を閉めた。


「俺が、永尾さんに少しでも会いたかったからです」


 そう言った鷹山さんは、少し笑っていた。


「俺の我儘を受けて貰ったので、永尾さんの意地悪も受けます」

「……え、なんで?」

「なんで」

「我儘と意地悪は全く違うと思います。我儘には無いけれど、意地悪には悪意があるんですよ」

「悪意があったんですか? 実は、この卵焼きとても塩が入っていて、高血圧にしようと企んでいたり」

「そんな風に食べ物を粗末にするような悪意はありません」


 でも、鷹山さんが食べている姿を見たいと思った。味がしないと分かっているものを、私の作った卵焼きを食べている姿を。

 つゆの中を泳ぐ小葱たちが、私の視線を奪う。その水面に私が映っているような、いないような。

 つん、とテーブルの上に置きっぱなしにされた私の左手をつつかれた。そちらに視線を移すと、鷹山さんが口を開いた。


「作って欲しいって言ったのは俺の方なんですから、永尾さんはそんなに思い悩まなくて良いですよ」

「鷹山さんが、そんなだから」


 私はこの気持ちの正体に、気付きつつあった。この人は元からこんななのだろうか。こんなに、鈍感に、器用に、生きていたのだろうか。

 この前、真由と三人で飲みに行ったことを思い出す。

 飲み会でも昼食の席でも、みんなと同じものを口にしていながら、何でもないような顔をして振舞ってきたのだろか。


「……心配になります」


 思っていたことを口にする。どうしてこんなに深刻な声で言ったのかは、自分でも分からない。鷹山さんの、他人のことなのに。

 そして鷹山さんの言った通り、誰も頼んだわけではない。私はその責任を負う義務も意味も理由もないのだ。


「それは、同情による心配ですか?」


 その質問に、顔を上げる。私はまた俯いていたらしい。

 鷹山さんは笑っていたけれど、何故か少しだけ寂しそうだった。


「同情……」

「俺の味覚が馬鹿だから憐れんで、心配してくれてるんですか?」


 口を噤む。それは、肯定を意味していた。

 同じことを鷹山さんも察知しただろう。割り箸を置いて、少しだけ視線を下げた。


「俺が永尾さんに会いたかったのは、愛情からです」


 時間が止まったのかと思った。そのくらい、その言葉には空間を歪める力があった。

 私はしばらくぽかんとして、それから周りを見回した。いるのはフロアの隅の方で静かに缶コーヒーを飲んでいる人や、掃除のおばちゃんだけだった。

 今のは、一体、何だ。


「なので、口実は何でも良かったんですけど、食べ物にしたのはまずかったですね。永尾さんの手料理、好きですけど」

「待ってください、鷹山さん、待って」

「はい」


 にこ、と笑うその顔に、あの哀愁は感じられない。どこに行ってしまったのだろう。探すより先に、私はここから逃げ出したい。


「私、時間が。あ、もうこんな時間だわ。仕事に戻ります。タッパーは差し上げます」

「え、良いんですか。返しますよ」

「結構です。差し上げます、洗わずに捨ててください」


 こんなことなら使い捨てパックで持ってくれば良かったのだ。

 そう後悔したのは、私が返却口にトレイを置いたときだった。勿論、鷹山さんはタッパーを持って私を待っていた。

 返さないで良いから、もう会いたくない。




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