涙を受け止めて


 家に帰った途端、外で雨が降り出した。

 ベッドに身を投げて、手も洗わず、服も着替えず、メイクも落とさずに窓の外をぼーっと見ていた。窓を叩く雨が、ひとすじ、またひとすじと流れ落ちていく。

 それを見ていると、涙が出てきた。左目から落ちて、頬を斜めに横切り、髪の毛とシーツへ染みを作る。

 暗い部屋で雨を見て泣いてるなんて、なんて情緒不安定なんだろう。

 寒い。クローゼットの奥にしまった電気ストーブを出さないと、風邪をひいてしまう。分かっていて、身体を丸めた。

 涙の理由を考える。悲しいからじゃない、辛いからでもない、悔しいからだ。

 私は変わってないし、全然変われない。

 泣いてばかり、守ってばかり、前に進めていない。

 そのまま目を閉じる。







 携帯のバイブ音で目が覚めた。眠っていたらしい。肘をついて身体を起こす。携帯、どこに入れたっけ。

 コートのポケットで震える携帯を取り出したのは、私用携帯だった。

 一瞬躊躇して、その画面に見えた名前を確認する。

 鷹山さんだ。

 なんだろう、何かあったのだろうか。慌ててボタンを押す。


「もしもし」

『もしもし、すみません遅くに』


 私は部屋にかけてある時計を見る。九時半過ぎ。三十分ほど眠っていたらしい。

 きちんと起き上がり、窓の外を見た。まだ雨は降っている。


「いえ、大丈夫です。どうしたんですか?」

『風邪ひきました?』

「え?」

『鼻声なので。関東、雨ですよね。傘忘れたんですか?』


 久しぶりに鷹山さんの声を聞いた気がした。会ってない期間が長いことは今まで何度もあったのに。

 鼻声なのは、さっきまで泣いていたからだ。それを言うのはなんだか恥ずかしい。


「雨、降ってます。出張中ですよね、中部の方は降ってませんか?」

『こっちは晴れてますね。星より街の明かりの方が眩しいですけど』


 懐かしく感じた。地元には懐かしさを感じなかったのに。私はすごく薄情だな、と思う。

 冷たくて、薄情。冬の雨みたいだ。

 そう考えたら、また涙が溢れた。


『そうだ、尋ねたいことがありまして。永尾さん、お土産はういろうが良いって言ってましたよね』


 はい、と答える。


『検索してみたらういろうって味の種類沢山あるんですね。何味が良いとか……永尾さん?』

「味……」

『泣いてるんですか?』


 どきりとした。誰も見ているわけではないのに、肩が震える。

 どうして分かったんだろう。左手で涙を拭う。


「ごめんなさい、ちょっと一回、」

『切らないでください』


 切りますね、とは言わせてもらえなかった。思わず口を噤む。

 電話って、とても平等な機能だなと思うのは、どちらにも切る権利があるところだ。相手が何を言おうと、こちらが勝手に切ることは可能。

 だから、鷹山さんが何と言ったって、私は切ることが出来る。


『切らないで、永尾さん。

 切ったら、俺、今から新幹線に乗り込んでそっちに行きます』


 ぼろぼろと涙が零れた。どうしてこんなに自分が泣いているのか、本当は分からなかった。悔しいから泣いているのなら、何に対して悔しいと思っているのだろう。

 本当は分かっている。甘ったれな自分が悔しい。母に対して、何ひとつとして、理路整然と話せない自分が嫌い。

 そんな私に、優しくしてくれる鷹山さんが。


 ぐずぐずと泣いている間、鷹山さんとは何も言わずに通話を繋げたままでいた。切ったら本当にどうやってでも中部から帰ってきてしまいそうだ。鷹山さんなら、なんだかやりそうな気がした。


「鷹山さん」

『はい、ちゃんと起きてます』

「ありがとうございます」

『何か辛いことがあったんですか?』


 辛いことって、世の中にありふれてると思う。道の端に転がる石みたいに、転がっていて、たまに蹴飛ばす。注意してないから、躓く。何も考えずにいると、簡単に転ぶ。

 私はそんな石ころに躓いてばかりいる。


「自分のことなのに、上手く言えなくて」

『はい』

「それが悔しくて、苦しくて」

『はい』

「自分のことを、嫌いになってしまいそうで……」


 もう正気に戻れない。それくらいには、私は疲弊して苦しかった。ずっとずっと塩辛い飴を口に突っ込まれているくらいには。

 おでんを食べて、逃げるように実家を出た。引き止める母の言葉を半分無視して地元を抜けた。私の居場所はもうここにしかない。ここにしかなくて良い。

 部屋に入ると、安心した。

 やっと私が手にしたものだったから。


『永尾さん、忘れてます』

「え?」

『俺は永尾さんのこと、好きですよ』


 止まった涙が溢れる。目に涙の膜が張る。


「……鷹山さんは嘘つき村の住人だから」

『俺の村は正直村です。今度招待しますね』


 瞬くと、涙が落ちた。

 招待してくれるらしい。どちらの村にだろうか。


『永尾さん、今日の夕飯は何を食べたんですか?』

「おでん、です」

『俺は今日、接待でひつまぶしが出る店に行ったんです。ひさしぶりに鰻を食べたんですけど、とても食感が良かったです』

「……ひつまぶし、良いなあ」

『今度食べに行きましょう』

「はい、是非。あ、遅くまでごめんなさい」


 時計を見ると、十時を疾うに過ぎていた。電話の向こうで鷹山さんが笑う気配がした。


『いえ、こちらこそ。ちゃんと毛布かけて眠ってくださいね』

「今日は掛布団も出してます」

『それは良かった。おやすみなさい』

「おやすみなさい」


 鷹山さんにおやすみなさいと挨拶したのは二度目だ。最初は、この部屋に来たとき。

 通話が切れる。私は携帯をベッドに置いた。丸まったティッシュたちをゴミ箱に入れていると、再度携帯が震える。

 画面を見ると、鷹山さん。


「はい、もしもし」

『本来の目的を忘れてました』

「目的?」

『永尾さん、ういろうの味は何が良いですか?』










 社会人は簡単に休むことはできない。

 そんな風に言うと、ブラックだとか現代は騒がれるのかもしれないけれど、社会の歯車として生きていくと決めたのだから、それは致し方ないことだとも思う。大学のように単位を考えて自分の都合で授業を休むことができるなんて、人生においてあの時期だけだ。

 昨今の新社会人が挨拶しないとか連絡しないとか時間通りこないとか、そういう学生気分を引きずる要因でもある。


「永尾先輩、チェックお願いして良いですか?」


 木戸が隣まで来て、資料を差し出してくる。今朝出社して新人が退職願を出したと聞いて、私の唯一同じ部の同期が頭を抱えていたのを見れば、本当によく出来た後輩だ。


「うん、午後までには確認して返すね」

「ありがとうございます、よろしくお願いします」


 誰が歩みを止めようとも、世界は今日も回っている。

 私がどれだけ泣いたって、この世が水浸しになることはないのだ。



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