みかんのかおり
私は1月のカレンダーを破った。一年で一番日付の少ない月になってしまった。破った1月のカレンダーには、その日付分の重みがあるのかと聞かれれば……どうだろう。
部長には、中部に行くことを告げた。本田さんにはまだ連絡をしてなかったことに「本田が連絡来ないけど、結局本社に残るのかって俺のとこに電話きたけど」と裾原さんから言われるまで気づけなかった。そういえば未だに連絡してない。明日の午前中にでも連絡をいれよう。
「おかあさん?」
日曜日、買い物から家に帰ると、私の部屋の前に母が立っていた。何かを袋一杯に入れて腕にかけている。私が声を出すと、こちらを見た。
「千佳ちゃん、早く開けて」
「え、あ、うん」
言われた通り鍵を出して扉を開ける。というより、何故ここに。というより、何故私の家を知っているのか。
「お邪魔します」と言ってきちんと靴を揃えて家へ上がっていくお母さんの背中を見て暫く放心していると、「来ないの?」と中から顔を出した。
「私、言ったよね、来週の土日に家に帰るからって……」
「でも山川さんが段ボール一杯分けてくれたのよ。私一人じゃ食べられないでしょう? だから早く千佳ちゃんに持ってきたの」
テーブルの上に置かれたビニール袋の中には沢山のオレンジ色が見えた。蜜柑の香りがする。私はその鮮やかな色に目を奪われた。
母がこの部屋に来るのは初めてだった。母はきょろきょろと周りを見回して、キッチンの方へ行く。私はコートを脱いでハンガーにかける。
「お母さん、どうして家の場所知っての?」
「前に千佳ちゃんがうちからここに帰るのを、つけてたことがあるから」
「え」
「ちゃんと自炊はしてるみたいね」
ここは、私のお城であり、巣であり、唯一安心できる場所のはずだった。
まさか、知られていたなんて。
母はそう言って、こちらに戻る。
「……お茶、淹れるね」
買ってきたものも冷蔵庫に入れないといけない。キッチンへと逃げる。母は何も言わずソファーに座っていた。
鷹山さん、真由、と心の中で呼んだ。勝手に呼んだだけなので返事がくるはずもなく、食器棚からカップと急須を出す。薬缶に火を点けた。
母が蜜柑を届けに来ただけでないのは重々承知だ。どんな話をするのかまとめてもいない私のところにやって来てしまうとは。
「千佳ちゃん、これ何?」
「同期がくれたお土産……箸置きなんだけど可愛いから置いてる」
「へえ、素敵」
思わず振り向いてしまった。その箸置きをくれたのは鷹山さんだ。実家に帰った時に買ってくれたらしく、使われる時間よりもテーブルの上に乗っている時間の方が長い。確かに仲良くなるつもりだと話していたけれど、まさかそれも狙って……? というのは考え過ぎか。
沸騰したお湯を湯呑に注ぐ。少し経ってから急須へ戻す。均一になるように回しいれる。紅茶では最後の一滴をゴールデンドロップというらしい。
お盆に乗せてリビングへ持って行く。
「……お茶、淹れられるの」
「え?」
「山川さんに千佳ちゃんの話をしたら、もう社会人なんだから親離れして当たり前だって言われたの」
そう言って、母は湯呑を持つ。私は頷きながらラグマットの上に座って、その様子を見た。思えば、私の作ったものを母が食べるのも初めてだ。
どうしてこの短時間に初めてなことを何度も体験しているのだろうと心臓がおかしくなりそう。
「私、四月から中部に転勤になったんだ」
しかし、話すことはきちんと話さないと。母は湯呑から口を離して、静かにこちらを向いた。最初に出るのがお茶の感想でないことだけを祈る。
「中部に? それって千佳ちゃんが行かないといけないの?」
「私が行きたいから行くの」
「どうして? どうして千佳ちゃんは私を置いていくの……」
――どうしてそんなこと言うの。
――私を置いていくの。
家を出ると話したとき、母は私にそう言った。私はそれを責められていると思っていた。今考えてみれば、離婚して父が出て行ったあの家から私も出て行くなんて、母の方が責められていると感じたのだろう。
湯呑がテーブルに置かれる音。ビニールから蜜柑が二つ出されていた。
「家を出る時は言えなかったことがある、お母さんに」
「何?」
「辛く感じたの、これからずっとお母さんの言う通りに生きていくことが」
私はこれから今まで育ててくれた母を責める。
「お母さんの言ってることに従いながら、それに甘えてる自分もいた。だから家を出たの」
「お母さんは千佳ちゃんのことを思って……」
「それは分かってるよ、でも、私には私の人生があるから」
母の方を見ると、何かを言いたそうに唇が閉じられたまま動いた。こうしてみると、少し疲れた顔をしている。
「ごめんなさい。家には戻らないし、中部にも行く。この前居た人は鷹山さんって言って、今お付き合いしてる人です」
その言葉を言うのに、どれだけの力と時間が必要だったのだろう。最後の方、声が震えた。
「千佳ちゃんは昔から遊んじゃいけないって子と仲良くしていたわね。あの人に似て、全然人の言うことをきかない子だって思ってた」
静かにそう言って立ち上がる。ソファーにかけたコートを持って、母が動いた。
「お母さん、今度ね、鷹山さんに会ってほしいの」
「好きにしなさい。千佳ちゃんには千佳ちゃんの人生があるんでしょう、誰とでも結婚すれば良い」
「そうじゃなくて!」
大きな声に母が足を止める。
「お母さんだって分かってるでしょ……お母さんは私になれないし、私もお母さんにはなれない」
「……辛いなら、辛いって、言えば良かったでしょう」
「え?」
「言えば良かったじゃない。言ってたら私だって考えたわよ、それなのに今更過去形で伝えられて一方的に被られた側の顔しないでよ」
「それは……」
「大体ね、千佳ちゃんは昔から感情表現が希薄なんだから。何考えてるのか分からないことの方が多いのよ。急に意見したと思ったら家を出たいって何よ。自分勝手極まりないのはそっちなんだから!」
ふと考えた。母はこの家の場所を知っていたけれど、一度もこうして押しかけたこともない。「家に行く」と脅されたことは何度かあっても、実際来たことはないのだ。言われた通り、私の感情が希薄なのもあるかもしれないけれど、昔から私の嫌がることを強要したことはない。洋服だって遊ぶ子だって、結局私が従っていた。
だから、家には、この私の城であり、巣であり、唯一安心できる場所にはやって来なかったのだろう。
話さないと分からないことだらけだ。それは家族といえ、他人なのだから当たり前なんだけど。
「お母さん、もう一個言いたいことあるんだけど……」
「何?」
少し興奮したように母がこちらを向く。
「……美味しいご飯作ってくれて、ありがとう」
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