酸いも甘いも
どうして、と聞かれたことがある。どうしてなんて言われなくても、どうしてわかっていたら先に説明してるに決まっている。
わからないから、手が打てないのだ。
「本当にすみません、早急に直します」
部下の木戸がミスをした。一緒に頭を下げるのも上司の務めだと昔、私の上司が教えてくれた。本田さんという人だ。今は九州の支社で働いている。
たまに、ふらりと本社に現れる。みんなに伝えずに来るけれど、比較的手が空いている時期を狙ってきているのだろうな、と私は予想している。本田さんはそういうの、とても気を遣う人だ。
「先輩、本当にすみません」
「大丈夫、私も何度もミスした」
「本当に、本当に……」
「だから、同じミスはもうしないこと。それだけ覚えて仕事に戻ろ」
ね、と肩を押して戻る。と言っても、私もやっと新人を脱却した頃だと自分で思っている。
なんとかバタバタしながら新店舗のオープニングを迎えた。いちおう一段落はしたけれど、これでお終いではない。これからが本番だ。
「お疲れさまです」
「お疲れ様です」
「コーヒーいります? 加糖ですけど」
「欲しいです」
休憩所の自販機の前に来た鷹山さんに缶コーヒーを渡す。間違えて紅茶の隣のボタンを押してしまって出てきたもの。ラベルが似ているので、前も間違えた。
そんなことを思い出して、私は前と同じミスをしているなと呆れる。木戸に言えた立場ではない。
空いていた手首を掴まれて、反射的にぐっと力を入れてしまった。鷹山さんが驚いた顔をして、目を瞬かせる。
「え?」
「金を」
小銭がちゃりんとその大きい掌の中で鳴った。ああ、と私は拳を開く。そこにお金が落とされた。
「手小さいですね」
「そうですか? それは鷹山さんと比べたら小さいですけど」
「海獺も前足が小さいんですよ」
「海獺に繋がるんですか!?」
海獺、前足小さい。頭の中の小さなメモに書き込む。
鷹山さんは大きな手で缶コーヒーを包む。私は受け取ってしまった小銭をどうすべきか悩んだ。今更いらないです、と返してもね。
いや、返そう。
「これ返しますね」
「俺が海獺に似てるなって思ったのはですね」
「はい」
「これ言ったらセクハラかなと思ったので、今まで言わなかったんですけど」
鷹山さんからのセクハラ発言って。私はお金を返そうとする腕が宙で止まっているのを気にせずにその続きを聞く。
「海獺って眠るとき、海水の流れに流されないように海藻に身体巻きつけて眠るんですけど。毛布に包まって眠る永尾さん、そっくりでした」
「ね、寝てるとこ見たんですか!?」
「だから言い難いなと」
「ええ!」
「叫ばないでください」
叫びたくもなりますよそれは。ただでさえノーメイクの顔を見られているのに。
鷹山さんは涼し気な顔をして缶コーヒーを持ち直した。
「元気出ましたか?」
「元気……」
「ちょっと元気ないように見えたので」
口を噤む。人事部の人には嘘をつけないなと思う。どうしてこう、観察眼が鋭い人が多いのだろう。
私は小銭を握って、受け取ってもらえないことを悟った。「じゃあ戻ります」と鷹山さんが立ち上がる。
その背中を呼び止めた。
「海藻がないところでは、どうやって眠るんですか? 海獺って」
「どうなんですかね。陸で眠るのもいるみたいですけど」
思い出したように、鷹山さんがこちらを見た。
「水族館では、手を繋いで眠る海獺もいるみたいですよ」
三人で飲むことになった。というより、帰ろうとしていたら真由に捕まった。
「鷹山! 飲みに行こう!」
ちなみに鷹山さんはその後に捕まった。
ええ、鷹山さんのお財布事情だってあるだろうに。と思ったけれど、少しも嫌な顔をせずに「どこ行きます?」と答えた。
金曜ということもあって、駅の周りの居酒屋は大抵混んでいる。会社の周りで探そうと言って、歩き回ったら見つかった。
「見つかるもんだね」
「つぎ来るお客さん、社員だったりしてね」
「やめてよ」
真由が嫌そうに目を細める。鷹山さんがメニューを広げてこちらに向けてくれた。紳士だ、紳士がいる。
最初の乾杯をして飲み会が始まる。
「そういえば、どういう経緯で鷹山さんは家に来ることになったの?」
「部で飲み会があって、千佳の家の最寄り駅で解散になったんだけど、鷹山の家が上りで終電がなくて」
「財布がちょうど底をついていて、ですね」
「軽く真由に相談したら、軽く私の家を紹介されたと」
「鷹山だからしたんだよ? 他の男だったらしないよ?」
それって誰に対する何のフォローだ。真由はケラケラ笑いながらビールを呷る。
鷹山さんはレモンサワーを飲んでいる。真由曰く、いつもレモンサワーらしい。
「永尾さんには感謝してます」
「あたしには!?」
「石井にも」
「おまけ感!」
今日は上機嫌だ。私は注文した出汁巻き玉子を二つに割る。そのひとつを口に運ぶ。ちらりと鷹山さんを盗み見ると、ばっちり目が合った。咀嚼が止まる。
「な、なんですか?」
そう言ってしまえばこっちの勝ちだと思った。何ですか、と問われるよりはずっと良い。そんな自分勝手な感情で口にした。
それを神様は許さなかったのかもしれない。
「永尾さんは玉子焼きが好きなんですか?」
「好きといえば好き、ですけど」
「なんでそう思うの?」
「作ってくれたから」
真由の質問に無垢な笑顔を見せて答える鷹山さん。そんな、お母さんがお弁当に玉子焼きを入れてくれて嬉しいみたいな顔で言わないで頂きたい。
第一あれ失敗したし!
「千佳が他人に料理を食べさせるなんて! あたしも食べたことないのに!」
「ご飯とお味噌汁となますと……」
「ずるい!」
もうやめてください……。
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