何味の毒を飲む
久しぶりに本田さんの姿を見た。本社に用事があったのかと考えていると、目が合った。びくりと動きが止まる。
「お久しぶりです」
「よ、辛子明太子好きか?」
「好きです。もしかして!」
じゃじゃーん、と出された紙袋は福岡で有名な辛子明太子の店のもの。本田さんは私の元上司で、九州から本社に来るときはお土産を片手に来てくれる。
私はそれに飛びつき、「ありがとうございます!」と拝んだ。ご飯の友、辛子明太子。卵焼きに入れても美味しい。パスタにいれても、うどんでも……。
「すぐ帰っちゃうんですか?」
「昨日からこっちに居たんだ。永尾、出だったから会えなかったけど。今日は帰って支社行かないと」
「今いろいろ……」
大変なんですよ、と言いかけて辞める。大変なのは本田さんも同じだ。というか、私より大変に決まっている。その中で本社に呼ばれ、私に辛子明太子を渡してくれて。
「頑張ろーぜ」
な、と笑顔を見せられると、泣きつきたくなる。それをぐっと堪えて、木戸を呼ぶ。
「私の上司、本田さん。今は九州にいるの」
「初めまして、木戸と申します。永尾先輩の下につかせてもらってます」
「本田です。ごめん、今度は木戸さんの分の辛子明太子も買ってくるよ」
「いえ、私も頂きましたので!」
キリッとした顔で、木戸がクッキーをジャケットのスーツから取り出して見せる。
きょとんとした顔で本田さんはそれを見て、すぐに笑った。
「あー永尾もフレッシュな時期があったなあ」
「なんてことを」
「部下が育って嬉しいってことだ」
そんな言葉を聞けるとは、部下冥利に尽きる。
本田さんを外までロビーまで送るために一緒にエレベーターに乗った。一階のボタンを押し、扉が閉まるのを待つ。
「いつも貰ってばかりですみません」
「勝手に持って来てるだけだからな。今度こっち来てみろよ」
「美味しいもの教えてくれますか?」
「案内する」
エレベーターが一階について、扉が開く。本田さんが先におりたのを見て、その背中を追う。
「そういえば、まだ社食のきつねそば食べてるのか?」
「お昼がずれたときは」
社食のことを聞かれて、頭に浮かんだのは鷹山さん。あのまずいラーメンを食べ続けるひと。
「好きだな」
「舌に馴染んでしまったというか」
「まあ美味いものもちゃんと食えよ」
はい、と返事をする。
「身体に気をつけてくださいね」
「ありがとう、お前もな。じゃーな」
あっさりとお別れをして、踵を返すとすぐ傍に鷹山さんが居た。かつん、とヒールの音が響いてしまった。少し恥ずかしい。
「おはようございます。今の方は?」
「おはようございます、私の上司です。今は九州の方にいて、今日帰るんです」
「ああ、本田さん」
知っているらしい。ちょうど来たエレベーターに乗り、尋ねる。
「有名ですか、本田さん」
「というか顔が広いですね。流石宣伝課」
「あのね、辛子明太子をくれたんですよ! これは絶対に卵焼きに入れないと。あ、鷹山さんも食べますか?」
「永尾さんが作ってくれるなら」
「え」
いや、卵焼きではなくて。辛子明太子の方なんですけど。
エレベーターが開いて、私は出なくてはならなかった。
「おりないんですか?」
「お、おりますよ」
訂正をする前に、さらっと言われた一言で、ただの社交辞令かと思い至る。少し焦った自分が情けない。
「失礼します」
「卵焼き、待ってます」
振り返ったら、エレベーターは閉まっていた。これは訂正の必要がある。社食で会ったら話さないと。
会えなかった。最近よく被っていたから油断してたけれど、昼休みをずれるなんてよくあることではない。
約束をしてるわけでもないのに、そう簡単に鷹山さんに会えるわけがない。
炊きたてご飯の上に辛子明太子を乗せながらそんなことを思い出した。卵焼きは明日作ろうかな。あ、そういえば連絡先を知ってる。
携帯を出して、鷹山さんにメッセージを打つ。前回にやり取りをしたのは、真由と三人で飲みに行く前だ。結局弾丸になってしまったので、連絡先を交換した意味はなかった。
……こんな時に役立つとは。
『明日、社食に行きますか?』
『すみません、昼は外です』
すぐに返ってきたメッセージを見て、なるほど、と呟く。このまま鷹山さんに鉢合わなければ辛子明太子の話は自然消滅するのでは、という悪い顔をした私が語りかけてくる。
でも辛子明太子の話を振ったのは私でしょう、と天使の声も聞こえる。私をちっとも救ってくれない天使だ。
『卵焼きですか? いつも社食で会う時間で良ければ貰いに行きます』
鷹山さんからのメッセージに、天使が勝ち誇ったように微笑む。
『よろしくお願いします』
返す言葉が違う気もするけれど、まあそんなのは良い。ただ私はひとつ重要なことを忘れていた。
私が前に鷹山さんに出した卵焼きのことを。
あんなものはもう絶対に作らない。と思ったけれど、塩味が分からない中でそれを危惧するのも難しいことだ。今まで鷹山さんはどうやってそれを回避してきたのだろう。
例えば、甘い毒だったなら気付かず飲み込んでしまうのだ。
ああでも、と考えながらご飯を口に運ぶ。白い山に煌めく粒々の赤。
でも、私だって甘い毒なら飲み込んでしまうかもしれない。
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