決めていたこと
部署に戻ると木戸が鬼のようなスピードでキーボードを叩いていた。さすが情報学科卒業、一秒に何文字打っているのか今度教えてもらいたい。
「先輩、すみません……!」
「いい、資料作りしてるんだよね? 続けて」
「……はい」
心なしか涙目だった。しかし今はそれをフォローしている暇はない。何より先方への迅速な対応だ。
裾原さんの机に近づいて今の状況を聞く。先方はお怒り、木戸は資料作りをしていて、裾原さんが謝りに行くという。
「え、でも、裾原さんって午後会議じゃないですか?」
「あ!」
私が今まで聞いた中で、裾原さんの一番大きい声だった。隣のデスクで作業をしていた先輩が驚いてこちらを見る。「びびった……」と目をぱりくりさせている。私も超驚きました。
「忘れてた、まずい。行くと言ってしまった」
「私が行きます、午後フリーなので。菓子折りはいつもので良いですかね?」
「ああ……大丈夫か?」
「正直とても嫌ですけど、私が裾原さんの代わりに会議には出られないので」
「俺は正直、自分の代わりに行くなら他の誰よりもお前が適任だと思ってる」
「それは……褒め言葉ですか?」
「なんかあったら電話してくれ。あとはよろしく頼んだ」
それは投げる言葉ではない。任される言葉だ。
私は自分のデスクに戻ると、木戸がこちらを見上げる。
「謝りに、私も行きます」
「いや、木戸には資料を作って送って欲しい。あとこの前要らないかもしれないけどって集めてたやつも、ちょっと整理してくっつけておいて」
「……はい、本当にすみません」
「私も確認不足なとこあったよ。ごめんね」
ぶんぶんと首を振る木戸の肩を一度叩いて、私は部署を出た。エレベーターのボタンを押すと、ちょうど止まってくれた。
ボタンの近くに一人、立っていたのは鷹山さんだった。昼に噂をしたからだろうか。
「おはようございます」
「おはようございます、今からお昼ですか?」
「はい。永尾さんらトラブルですか? 石井が言ってました」
「ちょっと、先方がお怒りらしく」
「何したんです?」
「資料の添付を一部忘れまして……提出期限が昨日だったんですよ」
「……それ、相手、どこのどちら様ですか?」
扉が閉まる。私は一階を押した。二人だけだし、鷹山さんには言って問題ないだろう、と石間さんの名前を口にした。
「少し厳しい方で、資料抜け落ちは完全にこちらの非なんですけどね。許してくださると良いです」
「もしかしたらそれ、知り合いかもしれないです」
「そうなんですか? 世間て狭いですね……」
私の頭の中では謝罪のシミュレーションが始まっていた。とりあえずアポを取ってあるから、石間さんに会って、謝って……。
「永尾さん」
「あ、はい」
「一階です」
「すみません、ありがとうございます」
開ボタンを押している鷹山さん。私は慌てて外に出た。鷹山さんが一緒におりてくる。
「今日は食堂じゃないんですか?」
「カフェイン切れなので」
「私も一緒に紅茶飲みたいです……」
「帰ってきたら一緒に飲みましょう」
「アフタヌーンティー過ぎちゃいますね。じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ビルの隣のカフェに入る鷹山さんと別れて駅へ向かった。
「……疲れた……」
思わず声が出た。駅を出て会社に戻るところだった。あ、まず裾原さんにメール……の前に木戸に連絡しないと。あと、鷹山さんにも。
平謝りをしてきた。もちろん怒っていたけれど、思っていたより短く話がまとまった。木戸が送った資料にも目を通してもらえたし、余分に送ったものも良い反応がもらえた。
「永尾さんて、タカヤマと仲良いんですか?」
何より、その言葉に衝撃を受けた。
どちらのタカヤマさんかと、私の中がクエスチョンマークで覆われた。目をパチクリさせていると、石間さんが怪訝な顔をし始める。これはまずい。
「タカヤマからさっき連絡があったんですよ。彼、人事なんですよね」
「あ! 人事の鷹山さんですか」
そりゃ知ってます、会社も一緒に出てきました。
思えば、確かに石間さんと知り合いだと言っていたような。私の頭の中はシミュレーションで一杯だった。
「僕、あいつには強く出られないんです。大学のときの借りが結構あって……」
「な、なるほど……」
「でも仕事は別ですし、今回みたいなことはないようにお願いします。うちだけでなく他の場所にも迷惑がかかりますし」
「はい、気を付けます。本当に申し訳ありません」
なんだかんだとエントランスまで送ってくれた。本当、良かった。
あーでも退社してる時間かな。裾原さんと木戸にはメールしよう。送信して数分後、裾原さんから電話があった。
『お疲れ様、今大丈夫か?』
「はい。会社向かってます」
『ありがとう、助かった……悪いけど俺もう退社してるんだ』
「承知してます。木戸も帰りましたよね?」
『……いや、多分残ってると思う』
少しの間の後に聞こえた言葉に、裾原さんはそれが言いたくて電話をかけてきたのだと理解できた。伊達に裾原さんの下で働いているわけではない。
「分かりました」
『帰って良いとは言ったんだけど』
「いえ、多分私が木戸の立場だったら帰れないと思うので。それに木戸は私の部下なので」
『頼もしい上司だな』
「あと、裾原さん。私に任せて頂き、ありがとうございました」
昼間は言えなかった。今、大丈夫だったから言える。
裾原さんは少し笑う気配を出して、「もうないことを祈る」と言った。確かに。
部署は殆ど暗く、ぽつりぽつりと残業している人がいた。
木戸のデスクにも灯りが点いていた。
「残業代、ちゃんとつけるんだよ」
「……永尾先輩」
なんて顔をしてるんだ。
泣くまいと力を入れている。木戸は左手で右手の拳を包んでいた。少し突いたらバラバラと崩れてしまいそうだ。
こんな木戸に、裾原さんは「帰って良い」以外に言えなかっただろう。私は机の中からティッシュを取り出した。風邪をひいていた時に使っていた外箱なしティッシュだ。
それを見て、木戸が肩を震わせる。
「すみません、私……本当に迷惑ばっかりかけて。出張の時も忘れ物しちゃうし、ミスして先輩に謝りに行ってもらって……」
「私さ、新人の時にミスしては本田さんに謝ってもらったんだよ。その時に本田さんに言われた」
ずずっと鼻を啜る木戸にティッシュを差し出す。一度頭を下げて、木戸は一枚引き抜いた。
「上が下の人間を守るのは当たり前だって。本田さんもそうして貰ったって。だからね、私もそうするって決めてた」
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