惚れたら負けだ
何杯目かで、ふと先程の話題を思い出した。今までは部署の誰がこうだとか、出張した場所の話をしているたのに、だ。
「話が戻るんですけど、鷹山さんはどうして彼女さんと別れたんですか? 振られたって前は言ってましたよね」
「永尾さんって結構記憶力良い、というか細かいところまでちゃんと覚えてますよね」
「リサーチ力は大事なので」
笑って見せると、お水を勧められた。はいはいとそれを飲む。鷹山さんも結構飲んでいるけれど、あまり酔っていないように見えた。
「……真由から、鷹山さんの彼女さんはやばい人だったって、聞きました」
「なるほど、だからそれを」
「もしかして、こういうのを本人に尋ねるのって、マナー違反ですか? 鷹山さんってこういう話、聞いたらしてくれるので勢いで聞いちゃいました」
「永尾さんのそれってどこまでが心の声なんですか?」
「彼女さん、元気でポジティブな人だったって言ってたじゃないですか」
気にしたところは、そこだ。私とは似ても似つかない。明るい方でもないし、どちらかといえばネガティブ。
鷹山さんは少し困ったように首の後ろを触り、手をテーブルの上に戻す。
「石井から聞いてると思いますけど」
「浮気されたとかいう?」
「きちんと聞いてるじゃないですか……」
「そこは聞いたんですけど、どうして鷹山さんが振ったんじゃないのかなって」
長い指の先についた白っぽい爪。薄っすらと横線がついている。栄養不足の指だ。
とんとんと、指が二度動かされる。
「彼女が浮気していて、別れようという話にはなっていたんですけど、向こうが別れないと頑なで……って聞いてる?」
「きいてまーす」
「永尾さん、眠いなら」
「ねてません、続きをどうぞ」
テーブルに頬杖をつく。それから、とんとんと動かされている指を掴む。
「連絡を断っていたら、向こうが会いに来て、正式に振られました」
「なるほど。鷹山さんは振られてあげたんですね」
「買い被るの語源を知ってます?」
首を振る。考えたこともなかった。鷹山さんは続けた。
「被るは損害を被るって意味なんです。値打ち以上のものを買って失敗をするという意味から、実際以上に評価することへ転じたらしいです」
「へえ、ひとつ賢くなりました」
「つまり、買い被るのは良くありません」
指を離して鷹山さんを見る。私は買い被ったつもりはない。いつも評価は正当。
椅子の背もたれに背中を預けて、ぼんやりと宙を見る。
「……器用ですね、鷹山さんも真由も」
学生のときの友人は何人かとまだ連絡を取り合っている。連絡を返すのが遅いと未だに言われるけれど。
社会人になって家を出て、更に私用の携帯を見る習慣がなくなった。それは鷹村さんや真由がしていた通り、連絡を断ちたいという表れなのだろうか。
「ちゃんと別れることができるって、すごいことだと思います」
「そうしない人間関係を築く人も沢山いますよ。器用でもそうじゃなくても」
「私、大人になったら、もっと器用に生きられるって思ってたんです。でも全然そんなことはなくて、どんどん冷たい人間になっていくだけでした」
酔っている、完全に。グダグダとこんなことを言って、鷹山さんを困らせる。面倒だと思われる。今度食堂で会っても、気不味そうに目を逸らされるかもしれない。
「永尾さんは、冷たくないです。そんなに面識もなかった同期を家に入れてくれました」
「あの状況で入れない方が鬼……ってこの話前もしませんでした? ああ、真由とか」
「それに、俺の話を聞いてくれた」
鷹山さんは自分の指の先を見てから、こちらへ視線を向けた。
「……聞いただけです。なにも、してません」
「同情も憐れみもしませんでした」
食堂でした会話を思い出す。思い出したいのに、頭が回らない。同情について、鷹山さんと話をしたのに、とても大事な話だった。
「俺はね、永尾さん。辛かったねとか苦しいんだねなんていう、共感的理解を示して欲しかったわけじゃないんです。自分の痛みは絶対他人の痛みにはなりえない」
私の痛み。
鷹山さんの痛み。
「永尾さんはそういうことをしないと思っていたので話しました。なんでもないことのように、受け取ってもらいたかった」
「……なんでもないなんて、思ったことないですけど」
「結局は主観ってことになりますね」
「鷹山さん、痛かったんですか?」
苦笑するように、でも苦しい方が大きいみたいに、鷹山さんは笑顔を作った。私はまた痛いところをチクチクと攻撃してしまったらしい。
「……どうですかね、どうだろう。でも、世界で一番自分が辛いんだと思ってたことはあります」
「じゃあ次に痛くなったら、こっそり教えてください」
「こっそり」
「甘いものを食べると、少しだけ幸せな気持ちになるんです。おすすめのお菓子を持っていきます」
痛みを完全に消す方法を私は知らない。でも和らげる方法ならいくつか見つけているのだ。
自分をそうして守ってきたから。
「なんだか、傷を舐め合う会みたいになっちゃいましたね」
「その言い方はちょっと……。それに永尾さんには傷、見当たりませんでした」
「目に見えたら楽なんですけどねえ」
「じゃあ永尾さんも痛くなったら教えてください」
店を出る。お会計は鷹山さんが持ってくれた。ごちそうさまです、とお礼を言う。
「何かくれるんですか?」
「俺が盾になります」
「鷹山さんじゃなあー、細いからなあー」
「永尾さん、結構核心を突いてきますよね」
「うん?」
振り向くと、こちらをじっと見て溜息を吐く鷹山さん。
「惚れたら負けか……」
「なんですか、悪口ですか?」
「違います。帰りましょうか」
「鷹山さん、ありがとうございます」
「いえ、卵焼きのお礼ですから」
「そうじゃなくて、盾になってくれるって言ったほう。とても心強いです。ありがとうございます」
大人になっても器用に生きられない。
不自由な私は、それでも大人になる。
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