甘くて塩っぱい
私の料理の腕は、独学だ。というのは、嘘ではない。
確かに出汁の取り方からフライパンの使い方まで、誰から習ったわけではなくて、テレビの中の料理の達人たちの真似をしたりだとか、動画を見てみたりだとか、時々古本屋でレシピ本を漁ったりした。
趣味も夢中になるものも特にないけれど、確かに料理だけは、食べるものに対する執念はあったかもしれない。
でもそれは自分を満たす為の手段であって、決して他人を喜ばせる為の手法ではないのだ、と気付いた今現在。
……塩と砂糖の分量を間違えなければ大丈夫なはず。
キッチンへ立ち、この期に及んで思考回路がショートしている。鷹山さんが家へ入るのは初めてではないけれど。……違和感。ちら、と振り向く。うん、違和感。
自分の家に他人の気配があることですら、違和感があるというのに、私はどうして簡単に鷹山さんを招き入れて、しかも昼食を御馳走しようとしているのだろう。いや、真由がいるのとは本当に勝手が違う。
買ってきたものを出していると、重要なことに気付いた。
「鷹山さん、事件です」
「はい?」
「紅ショウガを買い忘れました。非常にまずいです」
「三色の一部なんですか?」
「いえ、三色プラス一色の紅ショウガなんです」
つまり何色……となぞなぞに陥ってしまった鷹山さんに構わず、私は財布を持ち上げる。三色丼に紅ショウガは欠かせない。和カレーライスに福神漬けが欠かせないように。
「え、今から買いに行くんですか?」
「すぐそこのコンビニまで。大丈夫です、爆弾はセットしてありませんから留守番をお願いします」
「爆弾をセットできる永尾さんも怖いですけど、他人を自分の家に一人置いていく永尾さんの方も怖いです。俺が行ってくるので」
「そんな、お客様にお遣いさせるなんて」
「じゃあ、紅ショウガ無しで食べるか、メニューを変えるかのどっちかにしましょう」
私がリビングの出入り口へ進もうとすると、座っていた鷹山さんが立ち上がり、行く手を阻む。
……ふむ。
「……何か食べたいもの、あります?」
「……卵焼きを」
「鷹山さん、もしかして料理名それしか知らないとかじゃないですよね?」
「いやまさか」
「思えばご飯を炊くことも忘れていました……あんかけうどんで良いですか?」
テンションが下がって尋ねると、鷹山さんは「もちろん」と答えた。やはり卵焼きしか知らなかったみたいだ。私は失礼なことを考えて、財布を手放した。
鷹山さんは私がキッチンに戻るのを見て、再度座る。
「何か手伝うことありますか?」
「座ってテレビを見ていてください」
「分かりました」
言われた通り鷹山さんは大人しくテレビの方を見ていた。私は鍋を出してうどんを煮る。今回は冷凍うどんではなく、細めの乾麺。
フライパンの方で餡かけを作る。最初の予定とは大きく違ってしまったけれど、お腹が空いているのでまあ食べられれば何でも良くなってきていた。私も鷹山さんのことを言えないな。
器にうどんをもって、コンロがひとつ空く。そこに卵焼き器を出して、ボウルで卵を溶いた。あんかけに鶏挽肉とスナップエンドウは入っているし、卵焼きを食べられたら、今日食べようと思っていたものはクリアだ。なんて理由をつけて卵焼きを作る。甘くて、少し塩っぱいやつ。
フライパンに水溶き片栗粉を入れて、とろみをつける。同じくらいに卵焼きができたので、切り分けた。テーブルにお箸と卵焼きを出すと、鷹山さんが顔を上げた。
「卵焼き、ですよね」
「卵を焼いたものです」
「ありがとうございます」
「今うどんも持ってきます」
あんかけを乗せて、器を運ぶ。鶏ガラと醤油の香りがふわりと漂う。
「さて、いただきます」
「はい、いただきます」
手を併せた。うどんを掬って啜る。ああ温まる。
鷹山さんも同じように啜っている。ラーメンじゃない麺類を食べる鷹山さんを見るのは初めてだ。
「何の帰りだったんですか?」
「……言いたくないです、株を下げそうなので」
鷹山さんは苦笑する。
「と言っても、下落しっぱなしだと思いますけど」
「バブル崩壊ほどじゃないです」
「今度ひつまぶしで補わせてください」
「次延期にしたら、真由と一緒に行くので大丈夫です」
「地味にグサッときますね」
テレビからバラエティー番組の司会者が笑う声がする。タレントが映画の宣伝をしている。
鷹山さんはスナップエンドウを箸で掴んでいた。口に運ばず、それを見ている。
「寒いと味覚が遠いんですか?」
「はい。……最近酷くて」
だから、今日は一度も「美味しいです」と口にしていないのか。そうとなれば、今までは少しは味を感じて感想を言っていたのだと知る。
私はスナップエンドウをパリパリと咀嚼した。押し黙る鷹山さんを前によく普通に食事できるな、と思われるかもしれないけれど。
冷たいと思われるかもしれないけれど、鷹山さんの味覚が戻っても戻らなくても、私に直接関係はない。私の健康が侵されるわけでもなければ、私の人間性が明日変わるわけでもない。
でも、私の美味しいと思うものを美味しいとか不味いとか、感じてくれないのは少し、寂しいなと思う。
でも、鷹山さんは分からなくても、美味しかったと言って私をひつまぶしに誘ってくれた。
「大丈夫です」
これほど根拠がないのに、自信があることって、あまり無いと思う。他人のことなのに、よく言えたなとも思う。
鷹山さんの器に添えられた手の甲へ触れる。部屋は温かいのに冷たい。
「味覚、戻りますよ。戻らなくても死ぬわけじゃないです。死ぬほど辛くても」
視線が絡む。ゆらりとその瞳の奥が揺れていた。
「生きるのは、死ぬよりずっと楽ですよ」
心のどこかでずっと思っていた。死ぬことを考えるとき、思うのは死んだ後のことだ。死んだ後、生きている人々がどうするのか。想像して、それが辛くなって、目を逸らす。
ああ、話が逸れた。
私は手を離して、うどんに目をやる。
「あ、七味! 持ってきますね。卵焼きも食べてください」
立ち上がり、キッチンの棚へと近づく。七味がない。新しいのが箱のまま置いてある。べりべりと箱から取り出す。
「味覚が戻るの、あの社食のラーメンを食べてるときじゃないと良いですね」
箱を捨てて、振り向く。
「感動というより、悲しみで泣い……鷹山さん?」
卵焼きを箸に摘んで停止している。しかも、なんか目から水滴が、涙が出てる?
「だ、ど……泣くほど塩っぱかったですか? 早く吐いてください、これに!」
ティッシュを数枚引き抜き、押し付けるように渡す。また塩っぱい卵焼きになっていたのだろうか。本当に申し訳ない。
鷹山さんは受け取らずに、咀嚼している。
「……しいです」
「え?」
飲み込んで答えた。
「とても、美味しいです。甘くて、少し塩っぱい」
私の持っていたティッシュを受け取り、鷹山さんは目に当てる。
慌てて置いた七味の瓶が、ひっくり返ってテーブルの上を転がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます