まずいラーメン


 目が覚めた。何か、とても変な夢を見ていたように思う。

 でも思い出せない。諦めて、目覚まし時計を見る。六時半過ぎ。起きるまでにはまだ時間がある。空調を効かせなくてもちょうど良い室温のこの時期は、とても布団から出るのが憚られる。薄い毛布を体に巻き付けて、背中を丸める。ここは私のお城であり、巣であり、唯一安心できる場所


「ん……」


 のはずだった。

 数時間前までは。


 ベッドからそっと下を見てみる。健やかな寝息に戻っていた。成人男性一匹、いや一人。

 簡易的なマットを敷いて、その上に寝転んでいる。私が夏まで使っていたタオルケットを身体にかけている。

 この人は、我が社の人事部にいる鷹山さん。人事にいるくらいなんだから出来る人なのだろうという私の勝手な想像の押し付け。私が鷹山さんの存在を知ったのは、つい一週間前。



 昼休みはいつも社食に行くのが日課。

 社会人になって、昼は一人で過ごすことが多かった。うちの部は昼休みの時間が被ることが少なく、同期とは仲が悪いわけではないけれど殆ど一緒に昼食をとることはない。

 ピークを過ぎた社食は閑散としていて、昼食をとり損ねた社員がぽつぽつといるだけ。


「きつねそば、ひとつねー」


 いつものおばさんに食券を出す。トレイに水を注いだコップと箸を乗せた。数分もしないうちにきつねそばが出てきて、トレイに乗せて窓際へ移動する。

 社食といっても、学食とさして変わらない。長テーブルが何列か連なっており、そこへてきとーに腰を下ろす。今日は良い天気だ。

 お絞りで手を拭って、きつねそばを食べ始める。まずまずの味。

 ここの社食、ランチやカレーなんかは美味しいけれど、麺類は専らまずいと評判だ。だから昼のピークを過ぎればランチセットは無くなってしまう。そうなると私はいつもきつねそばを食べている。中でも一番まずいのが。

 斜め前の席にトレイが置かれる。その上に乗っかったラーメンを凝視してしまった。それからその人物を見る。

 ……これが噂のまずいラーメン。

 売れないけどメニューから無くならないと言われていた。なくならない理由、この人が食べているからじゃないの? と、自分のきつねそばは棚に上げて考えた。

 そのラーメンに手をつける前に、バイブ音が聞こえてその電話に彼は出た。


「もしもし。はい、鷹山です」


 そう、これが後に私の部屋に入ってくる鷹山さんだ。ちなみに私はここで初めて鷹山さんの存在を知った。


「ええ、はい……あ、少し……」


 内ポケットから手帳を出して、パタパタとポケットを叩いている。私は自分の胸ポケットからボールペンを取って、差し出した。

 少し驚いた顔をして、鷹山さんは手刀を切る動作をしてボールペンを受け取った。


「お待たせしました、お願いします」


 手帳へ書き込んでいくのを見てから、私もきつねそばを食べる。電話が終わる頃に食べ終わり、ボールペンが返ってきた。


「ありがとうございます」

「いいえ、はい」

「どうして分かったんですか?」

「なんとなくです」


 ボールペンをポケットに戻して、立ち上がる。「お先に失礼します」と言ってトレイを持ち、返却口へ向かった。

 そこで私と鷹山さんの縁は終わるはずだった。







 夜中というより深夜の時間に、携帯に電話がかかってきた。

 同期の石井真由から。


「もしもし」

『もしもし、千佳。まだ起きてた?』

「うん、眠ろうと思ってたとこ」


 テレビを消して、電気も消そうとしていたところへの着信だった。


『眠ろうとしてたとこ、申し訳ないんだけど……。今日、うちの部で飲み会があったのね』

「そうなんだ、何かあったの?」


 珍しく真剣な声を出すので、心配になった。真由は頭も良く美人で、要領も良い。部長に喧嘩でもふっかけたとか。


『お願いがいっこあってさ、聞いてくれる?』

「え……内容による」

『あたしの同期がね、つまり千佳の同期でもあるんだけど、千佳の家の最寄り駅で終電無くなっちゃったんだって。だから泊めてもらえる……?』


 深く考えた。

 真由がこんな風に慎重に尋ねてくるのは、私があまり部屋に人を入れたくないことを知っているから。潔癖症というわけではないけれど、あまり親しくない人を入れたくない。

 それでも、真由が電話してくるくらいだから、余程困っているのだろう。 


「……良いよ」

『本当に!? 始発の時間にはちゃんと出るように言っとくから。ありがと、よろしくね』

「はいはい」

『今度なんか奢る! あと、そのひと恋人いるから心配しないで』


 聞き返す前に電話が切れた。恋人がいるから、何かあったら迎えに来てくれるってことだろうか。それなら今すぐ迎えにくれば良いのに。眠っているとか? まあこんな時間だし。

 てゆーか、うちの場所分かるのかな。

 こんな時間に外を一人で歩くなんて心配だ。同期……あ、名前聞いてないや。

 部屋着のまま玄関の扉を開けた。少し肌寒い時期。ついこの前まで夏だったのに。

 ここら辺は深夜は人通りが殆どない。ヤンキーもホームレスもいちゃいちゃするカップルすら見ない。

 柵の向こうに広がる夜空は広く、星が少し見える。まだ吐いた息が白くならないのを分かっていながら、細く長く息を吐いてみた。

 足音が聞こえて、そちらを向く。スーツ姿に、ネクタイが少し緩められている。高い身長と、どこかで見た顔。


「え」


 それはあのまずいラーメンを食べていた鷹山さんだった。



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