第52話 ALT

 川端は立ち上がり定一の前まで行く。


「あの祝瞬太しゅんたが、この研究所にいるのか?」

「ああ、今あいつは講義に出ていると思うが」

「なんてことだ。こんなところで祝先輩に会えるとは」


 川端は驚きを隠せない様子。僕には祝なんて名前を聞いた覚えはない。そんな聞きなれない名字だと、人違いもあまり起こらなさそうである。

 藤見は作業を止めて訊いた。


「川端君、祝先輩って?」

「そうか、藤見、お前には一度も行っていなかったか。なんせ、俺らの高校の卒業生だからな……だがそこの樋田定家! なんでお前は初めて聞いたような顔をしているんだ?」


 そうは言われても、知らないものは知らない。いや確かにそんな名前を聞いたかもしれないが、確実にどこかのタイミングで忘れている。忘れているということは、あまり僕には関係のない人物だったのだろう。それならよくある話じゃないか?


「祝先輩は俺にいろんな言語学の話をしてくれた師匠みたいな人さ。何度か定家にも彼の話はしていたのだが、見事に頭の中をちくわにすり替えていたようだな」

「お互い様だ、お前、今ピックアップされている女の子の名前、分かるか?」

「むぅ、わからん! とにかく、あの人がいるならなぜ定一サンはミディレ語が分からねえんだ? テキストが手に入っていないのか? 千鳥子さんに何か喋らせたらあっという間に分かるだろうに」


 すると後ろで扉の音がした。どうやらこの研究所に誰かが帰って来たらしい。


「おう、千鳥子か、おかえり」

「Chidoriko... wii, tar amn mansuk」

「Mizire... aam gga rathkar. みなさんも、おつかれさまです」


 千鳥子、と呼びかけるがすぐに修正した「姉」と呼ぶ寝起きのミディレを見た。

 やはり二人は似ているのだが、どうも会話がぎこちない気がしてならない。まるで、生き別れて十年の時を経て再開したかのような――そんな感覚である。だがこの二人はかなり年齢差が感じられた。千鳥子の方はもう十分に大人の女性という感じがするが、ミディレからはまだ子供っぽくて多感な青年期というオーラしか感じ取れない。下手したら親子かと思ってしまうほどなのだが、それにしては年齢が近いような気もするので、やはり姉妹ではあるのだろう。


 川端はいったん座り、シャーペンを持ち直した。


「祝先輩はいつ帰ってくるんだ?」

「今日は講義を二つ受けて終わりだって言っていたから、そろそろ終わるんじゃないか? 広義が午後だけの曜日があるというレアな時間割を持っているぜあいつは」

「よし、あの人が帰ってきたらミディレ語の考察にさっそく巻き込むが、それまではお前の表現力の向上だ。 Mizire mo pu goodis di dii mo abweミディレもここに来て……してくれ. Aam surrirgan kar」


 一日でかなりペラペラになっているのはぜひとも称賛したい。いやあほんと、すげえよ。まじですげえ。お手上げだったミディレとの意思疎通もなんかこいつの発言を聞いてたら本当に可能なんじゃないか。嬉しいねえ。そこだけは感謝するぞ、川端よ。

 だが控えめな性格のミディレに対してそんなに堂々とした会話を強いるのはよろしくなかろう。学校のAssistant Language Teacherならまだしも、その辺のアメリカ人と中国人をとっ捕まえて至近距離で会話なんてさせたら、僕もミディレもちょっと耐えられないかもしれない。

 だが、こいつのスパルタ語学講座に付き合うしかなさそうだ。なぜなら定一は話にならないし千鳥子は教えてくれそうにないし、そもそも藤見と千鳥子は揃って別の部屋にいってしまった。というか、藤見の方は千鳥子を拉致って行った、と言う方が正しいか。

 ミディレを僕の実践ミディレ語会話につき合わせて、戻って来たばかりの千鳥子に学術的好奇心を剥き出しにした尋問をしてやろうという、母語話者を乱用したブラックなミディレ語研究所である。


「さてミディレ語講座、第n回だが、まずお前には一つ教材を渡したい」

「教材?」

「スマホを立ち上げろ。俺からメールが届いているはずだ」


 言われてスマホをつけてみる。ファミレスで周回したっきりスマホは見ていなかったが、確かによく見ると川端からメールが届いている。インスタントメッセージなどではなく、メールなのだ。

 開いてみるとリンクが一つ貼られていた。川端に指示されるがままに開いてみると、ブラウザが立ち上がり、「ミディレ語単語テスト」と題されたページが表示された。


「おいおい、こいつはなんだ」

「ミディレ語の解析データを移してサーバーを立ち上げたのさ。そのページは藤見が作った単語テストだな。まだ最低限の機能しかないが、俺たちが調べたり発見したりした単語や定型句をテストできる。ま、見ればすぐに分かるよな」


 なるほど、いよいよ本格的な、しかも随分と画期的なシステムを作ってくれた。これを日常的に回してミディレ語を使いこなせるようにしろというわけか。


「で、言語は単語を覚えるのはもちろんだが文法の知識を押さえなければやはり意味はない。今まではチャットグループでその都度記録していたが、そろそろ体系的な文法をある程度説明できる……が、英語表現の成績がアレなお前にその説明をしたところで、というのがあろう。文法はどうせ覚えてもらわんといかんが――」


 川端は一気に説明しながら、悩んだ顔を見せた。

 川端が全くの言語の素人に言語を教えようと思ったとき、その顔はあまりに真剣だった。


「――やってみるしかあるまい。お前ら二人は今からお互い自己紹介をしろ。Mizire tar, surrir pu karm. Aarm tekto di kar.」


 ミディレと聞こえた。

 ミディレは唇をぷるぷる震わせ、口を開いた。


「Am je Mizire=Zirkodisnar--」

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