第33話 もう一つの頼み

「ここが、兄さんの家か」

「如何にも。まあゆっくりしておけ。今の彼らに我々をここまで嗅ぎつけるほどの機動力はあるわけがない」


 それはゼースなんとかを使うことができるからという意味か。だがあれ以降空中でいきなりテレポートとかそんなことは一切していないが、あれだけの速さで逃げることができれば撒いたと言えるだろう。さて、聞きたいことはいくらでもある。全く本当に、様々なことが気になりすぎる。

 第一が、あの小さな注射器だな。


「おい兄さん、事情を説明してくれ」

「せっかちさんよなあ。こいつのことだろう?」


 彼は懐から先ほど見たような注射器を二本指に挟んで提示した。そうそう、それだよ。あれを使ってからこの三人の身体能力は明らかに飛躍した。川端は手刀ギロチンを可能にした。僕と藤見は屋上を飛び回ってここまで逃げることができた。身体能力も今までと明らかに卓越している。本当に空を飛んでいる夢を見ているような感覚。しかも夢の中で飛んでいるのは何にも違和感がないのだが、現実になって飛んでみると、何という違和感か。

 それについて、兄は説明をつづけた。


「こいつはゼースニャルメーテス可能化剤、というのさ。俺は移動魔法と呼んでいるがな。ゼースニャルメーテスとは、簡単に言えば魔法のことだ」

「なるほど、それを服用すると魔法が使えるようになると?」

「そうだ」


 ばかばかしすぎるが、今まで起こったことをまとめてみるとそう説明されても納得するしかない。

 つまり、川端はあの注射器を使ったときに卓越した身体能力を獲得し、男を一発で葬り去ることができるほどの力を得た、ということになる。さらに言うと、閃光に包まれながらテレポートしたのは、定一が注射器を使って魔法を行使して実現したということ。この注射器を使うといろいろと便利な能力が手に入る、という話だ。

 ここまでくれば、何が疑問になるか。つまり、この注射器の意味である。


「それにしても、なぜこんなものがあるんだ?」

「……それは、究極を言えば――」


 究極を言いながら彼は言わず、黙って右手でミディレを指した。指さされた彼女は声帯をわずかに震わせて戸惑った。見てみれば彼女は冷や汗をかいており、熱でも出したのかと疑いたくなるような状態だ。この注射器とミディレには深い因果関係があると、彼女の冷や汗は語る。


「ミディレがどうかしたのか」

「俺もよく知らんが、その女の子はある組織に狙われている。俺はその女の子と一か月前に知り合った。だが彼女を匿うために数日前に彼女を京都に送り出した」


 おいおい、ミディレはすでに兄さんと知り合っていたのかよ。せっかく彼女を初めて助け出したイケメン京都人を演出できたかと思ったのに、その前の事情があったのか。

 ところで気になることが、『ある組織』という如何にも謎めいた言葉。組織とはあまりにも大雑把な言葉である。それは会社なのか、組合なのか、政党なのか、政府の機関なのか、ヤクザの一派なのか。その組織がたった一人の少女を狙うなど、ろくでもない事情があるに違いない。


「その組織とは?」

「それが分からないんだな。言っていることも何を考えているのかもさっぱりだ」


 ダメじゃん。それくらいに頭のおかしい組織に狙われると言われても、逆に守ってやろうという心が薄れてしまいそうだ。組織なんて言うからそれはそれは大層な、例えばテロリストとかかと思ったのだが。だが、兄さんの甘っちょろい調査を鵜呑みにするとあまりいい結果にはならない気もする。図書館の本は返し忘れる、弁当箱は鞄の底で眠っている、三単現の-sは忘れる、3+3を9と答える、などなど。

 詰めが甘いというか、どこか一つが足りていなくてすべてを無駄にすることにかけてはスペシャリストなのではないかと。プロなのではないかと。


「組織とは、随分と謎めいているではないか」


 川端、同じことを考えやがって。だが僕は若干面倒くさそうな顔をしているのだが、川端はむしろもっと言語を解析しなければなあ、という血気に満ちていて抑えがきかなさそうである。


「さて、定家。お前はさぞかし面倒くさそうな顔をしているが、お前にも彼女を助けてもらうぞ」

「はあ」

「それだけではない。ゼースニャルメーテスの戦闘にも慣れておけ」


 すでに何度も感じていることだが、ミディレには何かややこしい事情があるのではないかと。その事情が『ある組織に追われている』だというのなら、これは想像以上に厄介だ。まあ予感していたのだが。


「さて事情が分かったところで、もう一つ大事なことを頼みたい。彼女を救う以外にももう一つな」

「はあ、何だ一体」


 彼女を救うということは、その組織と戦わなければならないのだろう。その組織と戦うのに注射器を使って卓越した身体能力を得ないといけないのか。察するにその組織はそれなりに巨大、またはその注射器を使って戦闘を続けることができるほどの強力な存在なのか。なんせ注射器を使わないと太刀打ちできないと言わんばかりの説明だったのだ。彼らもゼースニャルメーテスを使いこなせることができるに違いない。いかにも裏の世界で流通している秘薬と言ったところか。

 想像以上に大変、いや本当に。僕は彼女を救うために体を捨ててまでその人間と戦わなければならないのだ。ミディレを襲ったという男もその組織と確実にかかわっている。


 その覚悟は、できている。これも何かの縁だろう。迷えるミディレを見放すことはできないとすでに誓っている。戦う力を手にしたからには、それに応えてやろうではないか。

 だから、彼が新たに何を注文して来ようと、たとえ命の危険があってでも受け入れてやるつもりだ。僕は兄の『もう一つの頼み』に耳を傾けた。


「その、ミディレの言語、教えてほしいのよ」

「は?」


 は?

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