第5話 即時帰宅術入門

 「夜には遠くの音が聞こえやすい」とは聞いたことがある。

 おそらく僕らの今さっきの叫び声も夜の京都市内に届いたのだろう。敵性生物を発見し仲間に知らせようとする人間の本能が、そのまま僕らの声帯に訴えかけた。その結果、現れたのは一人の制服を着た男だった。


「なんだ、どうした!?」


 先程の悲鳴を聞いて駆けつけてきたのかもしれない。さすがにあそこまでの悲鳴を上げた理由が敵性生物によるものだとは恥ずかしくて言えないが、どちらにせよここに、というかこの男のような人間に用事があることは変わらない。


「あの、すいません、彼女迷子で……」

「あ、ああ、なんだ、迷子の子か」


 よほど凶悪な事件が、この日本の秩序を守る建物の前で行われたのかと思っていたのだろうか。残念ながら、敵性生物だ。

 僕は彼女を引き渡す。そのために、幾つか事情を説明した。例えば、彼女は実は日本語が扱えないこと。これが多分一番重要だと思う。そして英語も伝わらない。他の言語でも通じるのかもしれないが、僕がそんな他言語を操れることができないことは、すでに確認した。唯一分かるのは「ミディレ」という名前だけか。あと、「トイター」という言葉もタグ付けしておくべきかもしれない。


「なるほど、なかなか特殊な例だ」

「何とかお願いできそうですか?」


 まだ返事をもらっていないのに、任務を達成した気になっている自分。だが、ここまでくればほぼ確定だ。彼女は公的機関に保護され、後は国際的な補助を受けて彼女の母国に帰れるのだ。たぶんきっとおそらくそうに違いない。何の罪のない女の子を突然わざわざカンボジアに送り込むわけがない。

 おっと、警察の男がミディレの肩に触れる。いきなり触って大丈夫なのか? 一言くらい声をかけないといけないんじゃないのか? いきなり触るのはちょっとだめだと、樋田思うなあ。


 すると、彼女は予想外の行動に出た。

 ミディレは肩に触れんとする警察官の男の右手を左手で、浴びせられる目線を彼女の細い首で、まるで暴風の中こちらに無秩序に打ち付けてくる風と落ち葉を背中を使ってガードするように、払ってしまった。

 彼女は警察官の男を真っ向から嫌っているのか、それとも彼に引き渡されることを拒んでいるのか、男が出てきた建物のところまで行こうとはしない。それどころか、一日一ミリずつ動いて毎日ポージングを調整しているマネキンの様に微妙に気付かないような速さで、遠ざかろうとしているようにも見える。なぜ僕にわかるのかというと、僕がそう感じているだけなのだが。

 何も動いていないはずなのに、まるで勝手に遠ざかろうとしている。かと思いきや、本当に彼女は遠ざかり始めた。幻覚でも錯覚でもない。

 そして、ミディレは僕の手を掴んで逃げることを示唆した。

 僕は何をする気なのか分からず、そして抵抗しようにもできず、しばらく彼女に連れられるまま夜の街を走った。連れて行かれる寸前、僕は咄嗟に声が漏れてしまった。


「わわっ、なんだなんだ?」

「Imie he kar je narro h'am wean tegge!」


 警察に渡されたくはない。もしかしたら、何か誤解をされているか。いや、彼女は今交番に連れて行かれているという事実を認識しているかも怪しい。

 だが、なんだか分からないが、異常事態だということが分かった。頭が足りないとか以前に、ヒントが少なすぎて、何が起きているのかさっきから分からない、もうお手上げだという状態。てっきり彼女を交番に届けさえすれば万事解決、即時帰宅かと思っていた。世の中そんなに甘くないな。即時帰宅術入門からやり直してきます。


 かなり走ったと思われる。さっきまで来た道とは反対側にひたすら走っていったことになる。今まで南に行っていたので、ジュンク堂があった通りから下に行けば、そのうち大通りに差し掛かるはずだ。それが五条通。ただほとんどが四条三条河原町で解決しているイキリ京都人の僕は、五条通を歩くなんて、しかもこんな夜遅い時間に女の子を連れて、いやそもそも女の子を連れて外を歩くなんて、した経験がない。

 しばらく走って、彼女はあたりを見渡した。まるで敵が追ってきていないかを確認するように、慎重に前方後方上下左右、三次元的に空間を捉えながらあらゆる方向を見回してみる。敵がいないことを確認すると、一旦肩の力を抜いた。


「な、なあ、大丈夫…なのか?」

「Ye, wi, ye」


 まともな反応は来ない。

 とにかく、以上のことから彼女に何か事情があることが浮き彫りになってしまったわけだ。単なる観光客ではない。何か事情があってこの日本にいる。そう思わせるような事案だ。せめて、会話を試みないと何も進まないだろう。こういう時は、こちらから歩み寄ってみるものだ。

 彼女の話す言語を知るために、先程は確か「○○である」に相当する表現を聞き出そうとしていた。今こそそれを実践するときだ。しかし、こんな道端でできたものじゃない。一旦家に帰ろう。そうしよう。彼女を家に連れて帰ろう。そうだ、持ち帰ってしまえば、もう問題はないではないか。まるで流動資産のように考えていた。


 やれやれ、何やら時間を食ってしまったようだが、初めから彼女を僕が匿う形にしてしまえばよかったのだ。


「ミディレ、家に帰ろう」

「I... enikae roo...?」


 僕は右手を差し出して、ミディレの意志を確認した。

 少しためらったかと思ったが、彼女はちゃんと握りしめた。ちょっとは信頼してくれているらしい。

 僕たちは五条駅を目指し歩き始めた。

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