第35話 オトナの川遊び

 惨状は突然広がった。誰も悲鳴を上げる隙などなく、そのまま彼は机に伏してしまった。少女は両手に短剣を構える。定一は返事を返さなかった。


「……え?」


 藤見は意図したのではなく、制御不可能な呼吸をしていながらつい声帯を震えさせてしまった。川端は両手であまりにも頼りなさそうな構えを取っている。定一は机に伏せたままぐうの声も出さない。僕には、余りに急の出来事に対してあの兄の無様な姿に対する悲嘆の声も涙も出てこない。

 はじめ僕らの警戒心を裏切ろうとした少女の姿であったが、彼女の目から放たれる殺気は本物で、再び僕らを恐怖の谷へ引きずり込んだ。彼女の前では逃げられない、何をしても殺されると思えてしまう。

 僕は当然、ナイフを持ったことも銃を握ったことも、いやそれどころか人を暴力で押さえつけたことすらないのである。川端とは冗談半分でたたき合うような関係であったとしても、それとこれとは全くもって話が違うのだ。

 そんな僕が僅か一秒にも満たないうちにこれほどの修羅場にさらされた。僕の精神はもうこれだけでも正直参っている。あの少女は華奢に見えて小柄に見えるが、近距離戦であればまず負けるだろうなと直感した。ならばやることはただ一つか。


「逃げるんだよぉ~!」

「イェッサー樋田!」

「Ra, ti kyanpa param!?」


 僕は川端とミディレの手を鷲掴みに、藤見を目線で引きずりながら全員離脱を試みた。窓から逃げるには危ないか、扉まではどれくらい距離があるのだろうか。そもそもこの部屋には初めて訪れたので見取り図など分かるわけがないが、そこは現代人的センスで何とかするしかないか。マンションの一室なんだから迷路みたいになっているなんてことはあるまい。とりあえず出口出口……

 おっと、僕は彼女を迫りくる一酸化炭素濃厚な煙か何かと思っていたようだ。ここは先手必勝、窓からダイナミック離脱を行うしか安全な手はない。悠長に現代人らしく出口なんて探していたら、この少女のナイフであっさり極楽への出口に導かれるに違いない。ここまで僕の思考は二秒程度。戦いの場においては少々遅いかもしれない。


「Je arzaa fo thaazu...」

「なっ、な」


 僕樋田定家はいったん玄関を探そうとしたことを後悔した。あのほんの一秒にも満たないわずかな迷子思考のせいで自分は今わずかなスキを突かれて少女に仕留められようとしている。彼女のナイフは僕の腹に突き刺さろうとその切っ先を光らせ、たんぱく質等で固められた僕の柔らかい腹部とピンチから逃れようとする前身の血液を待ち望んだ。少女の目に慈悲はない。僕はここで兄ともども殺されるか。

 すると突然僕は窓の方へ弾き飛ばされた。明らかにあのナイフが刺さったからではない。僕の脇腹には打撃の痛覚がじんわりと残っている。さもないと肋骨がおられてしまうんじゃないかと思うほどの強烈な一撃を食らった。

 したがって僕は窓の外へ弾き飛ばされた。それも僕だけではなく川端も藤見も。建物の下は川で、運よく落下ダメージを防げるかと思ったが空中からでも見える浅瀬はさすがに鳥肌が立った。僕らはここで地面に強く衝突して死ぬか。先ほどは何とか窮地を逃れたかと思ったら。


「うわあああ」

「あぴやあああ!」

「らららあああ!」


 ざばあん。

 川辺でけなげに遊ぶ喧しい若い男女の光景ならまだよかったものの、僕らが体験したのは、マンションの四階から三人で豪快に飛び降りて思いっきり水飛沫と断末魔の悲鳴を上げながら入水するという、けなげさのかけらもない行為である。

 不思議なことに、あの敷き詰められた石にぶつかって明らかに足をくじいたはずなのに痛いのは一瞬で自分は死んでいない――明らかにゼースニャルメーテス可能化剤とやらの効能だ。兄がわざわざ一度服用してからテレポートを実現した以上は、おそらく効果が続く有限の時間が存在していて、まだそれが続いているということか。しかし、どこまで続いているのかもわからないし、効果が止まったことが自分でもわかるのかどうか、重ね掛けなどが推奨されるのかなどあの注射器を利用するには不安が残る。


「樋田……あれを見ろ」


 お洒落に髪が濡れてしまった川端は右手で先程の四階を指さした。そこは先程から爆音が鳴り響いているところである。この期に及んで何か面白そうな言語現象でも見つけたのか。爆音から言語学に話を繋げる芸当など、今まで見せたことなかったんじゃないのか。そもそも前提からして意味不明なのだが。

 さて、水にぬれた顔をこすって僕が見たのは、竹の棒を持ち少女の前に立ちはだかるミディレの姿であった。川端の指差しは決して無駄なものではなかった。ミディレは先程の少女を抑えようと孤軍奮闘していたのだ。

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