第16話 熟睡の儀式

 二度あることは三度ある。一日で、一度ならず二度もこいつを肉眼で見たのは人生で初めてのことだ。だが大丈夫。何も慌てることは無い。交番の前でこいつに遭遇した時は我らは何も武器を持っていなかった。丸裸でゲリラの襲撃にあっても、せいぜい地に身を伏せるぐらいしかできないだろう。そのまま屍を地上に作り上げるだけだ。

 今は違う。この家には、彼らと対抗するために人間社会が生み出した究極のスプレー型の兵器がある。我ら知恵ある人類ホモ・サピエンスが彼らを簡単に仕留めるために英知を結集させて作り上げた、超強力な殺虫剤。彼らの異常な生命力でさえも一、二発程度で根絶させることができる代物だ。

 さてそれはリビングの棚の上に置いてある。まずはそれを取りにいかなければ話にならない。その間にこいつを見逃しても、そのままベッドの上で鎮座されるよりはマシだ。むしろそこから動いてくれた方が好都合だ。どちらにせよ、仮に動いてくれたとしてこんなところにミディレに寝かせるわけにはいかない。まあそんなことは倒してからの話だ。リビングに遭った殺虫スプレーを持って階段を高速で駆け上がり、敵の存在を再確認する。

 部屋を移動してはいない。彼らはあくまで生命力を持っているだけで忍者ではない。お前たちに勝ち目はない。油断しているところを突いて、猛毒の飛沫を噴霧した。一発だけではない。三発も発射した。僕らの休息の時間がかかっている。


「――逝ったか」


 奴の遺体は僕の脚ほどの長さを誇るトングに載せながら、下水道に流した。

 さてこの布団。あんまり寝かせたくはない。なんせ、あの知恵ある昆虫が足をつけた布団だ。背に腹は代えられないとして、僕はシーツを外して一応洗濯機にかけ、布団をたたんで押し入れに仕舞った。どちらにせよこの押し入れは整理しなければならなかった。布団フォールのドッキリをこの家に仕掛けてエンターテインメントに仕立て上げるつもりは全くない。たぶん母親もそんなこと考えていない。


 ミディレの寝床は害虫によって損なわれてしまった。しかし、床に寝かせるわけにもいかない。客人に対して畳の上で寝てくださいなど、京都人には口が裂けても言えない。人間が寝るところは布団かベッドか棺の中と決まっている。睡眠欲と性欲を満たす場である神聖な領域を畳に設定することはできない。

 そこで財布を見た。彼女を駅の近くのビジネスホテルに一旦泊まらせるという選択肢を先に考えていた。冗談程度に考えていたがまさか本当にこれを検討しなければならないとは、さすがに想定外だ。おまけに部屋一つ取れそうな残額などさすがに存在しなかった。


「どうしよう、どこに寝てもらおうか――」

「Tar... Toitaa」


 トイター、と呼ばれた。名前にだけは反応できるので、簡単にお互いを呼ぶことができるのは便利なのだが、そこから先は大変だ。果たしてどうやって解釈してくれようか。首の筋肉を動かして顔を声が下方向へ向けた。ミディレは僕の布団を指さしながら、布団に入りかける動作をしていた。

 え、え、ちょっと待ってください。それはさすがに反則ですよ。むしろあなたがそんなことを思いつく女の子だったなんて思わなかったですよ。どういうことです? もしかして、からかっているんでしょうか。僕がそういう系のことにとても弱い、いや弱くはないですけど、普通男子にとってそういうことを持ちかけられると落ち着いていられないということを、知っているのか知っていないのかによって議論が分かれそうですよ。

 でも僕は、彼女がそんなことを知らなくて、あくまで建設的な提案をしようとした結果がこれなのだと信じたい。そんないけないことをするような子ではないなと僕が第一印象で決めつけているのかもしれないが、あくまでそういう提案なのだ。そうだ、きっとそうだ。それなのに僕はどうだ。なんて邪なことを考えてしまっているんだ。人間として恥ずべき事であるぞ。事態は深刻なのだ。そんなことを考えている暇があったらすぐにでもバイトを始めてビジネスホテルに泊まらせるほどの財力を得るべきだ。

 どうも慣れないことを考えてしまったが。ミディレの寝床のためなら仕方がない。

 落ち着かない気分を押し殺して、ちょっとぎこちない歩調でミディレのいるところまで行った。ミディレはご丁寧に掛け布団をめくって僕を誘導した。


「Ti derbanzaa pu」


 ティデル……やはり知らない単語はいくら聞いても分からない。

 怯えながら壁側を向いて横になっていると、電気が消え、やがてもぞもぞと何かが布団に入り込んでくるのが感じられた。ごめん、明日には何かちゃんとした寝床を用意しておくから。明日には。こんな流れから、僕が床で練るなんてこともできなくなってしまった。僕の負けだ。初めて出会って今のところ君にしてあげられたのはラーメンをおごったくらい。


「En aamn naara... man mo fan en o sumitto derbanzaa?」


 ミディレが問いかけてきたのに、なんて言っているかまだ分からない。初めて彼女と話すことができた時はそれはそれは感動したのだが、ちょっと凝ったことを訊かれるとやはりこたえられる自信はない。


――今夜はひとまず寝ることに努めよう。おやすみ。

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