第31話 ノット麻薬、バット劇薬

 樋田定一、彼が家を発ったのは僕が高校生になるころの話である。もともと兄弟の仲は良くなかった。かといって悪くもない。お互いに事情に何も干渉しようとせず、求めることもせず、ただ何となく同じ屋根の下で長らく過ごしてきたあの兄の顔があった。

 「久しぶり」とか「元気にしていたか」などのようなやり取りをするほどの長い期間、兄と離れ離れになっていたわけでもない。そもそも、そんな思い出話をする暇などないことは、彼の焦りから十分に分かることだ。定一は急ぎ足で言った。


「久しぶりだな定家。ついて来い、お前の友達を奪いに行くぞ」


 奪いに行く、だと?

 それは、たった今手刀ギロチンを成功させてしまったあの川端を、この手で警察組織から奪い返そうというのか? なんてことだ、川端の殺人罪に共謀したとして訴えられるものかと思ったら、それどころではなく国家に歯向かって叛逆罪を被ろうとは。しかも、兄と一緒に!


「急ぐんだ、突っ立っている時間はない」

「いやいや待て待て、別にあいつが捕まろうというのなら別に捕まえておけばいいじゃないか」

「……! それがダメだから言っているんだ定家」


 ダメってなんだよ。どうせ問い詰めようとしたところで、話はあとだ、と返されるオチだ。そう考えて僕は何も言い出せずに兄――樋田定一についていった。藤見もその後をついて行った。

 急いで階段を駆け上がり、御池通と河原町通の交差点へ、現場へ向かう。僕も藤見も彼がどこで惨事を起こしたのか分からないので、彼の走る後を追いかけるしかないか。

 と思ったら、階段を駆け上がると見せかけて全く反対方向へ行き、僕と藤見の二人を強制的に男子トイレに連れて行った。何を考えているんだこの男は。僕はともかく藤見はこんな性格と趣味をしているがれっきとした乙女、男子トイレに入ろうというだけで生理的な拒否感が生まれるに決まっている。これがミディレだったらここで兄の腹に蹴りを入れていたところだ。


「え、え、男子トイレ?」

「蘭ちゃん……、男子トイレはあと数秒で出る」


 なんと焦りに焦った男だ。僕の記憶によると兄は、女性に対してちゃん付けなど一切しない。必ず名字にさん付けをするか、名前を呼ばないかのどちらかだ。普段の気の抜けた性格がなぜかここで顕現して逆にフランクになってやがる。

 そして、数秒で出ると言いながら便所の扉を施錠するのもよく分からないだろう。数秒で用を足してやろうという忠告であれば、僕ら二人をわざわざ入れる必要など皆無だし、そもそもそんなこと言わなくていい。現場に向かおうとしているはずの彼がトイレに男女を連れ込むなど、まるであの注射器を使ったのではないかと疑うほどだ。樋田家にのみ効く精神狂化剤、といったところかな?


「兄さん……あの麻薬の類いでも取り込んだのか? なんのつもりだ?」

「細かい話はあとだが……この注射器のことを言っているのなら、これは麻薬ではない」


 まあ、そうだろうよ。冗談にマジレスするその生真面目さ、変わっていないらしい。


移動魔法ゼースニャルメーテス可能化剤、超能力を付与できる劇薬だ」


 はあ、何を言っているんだこの男は。

 ゼースなんとかとかいうエキゾチックなカタカナ語を出してきたが、何の話かさっぱり分からんな。可能化剤だというのだからそのゼースなんとか――すなわち超能力が使えるようになる、そういう薬だと言いたいのか。僕と藤見が持っているこの注射器も。

 川端が渡されたモノも、川端に手刀ギロチンを可能にしたモノも? 樋田の実家を離れてからこの男が何をしていたかと思えば、数理情報系の学習でも、就活でも、そういう類いの新生活でもなく、一針で超人になれるという劇薬の使い方だというのか。


「その注射器をどうするんだ」

「まあ、見ていろ、時期にお前らにも使わせてやる。そのための『計画』だったからな」


 計画、か。僕が知っている真面目な兄とはあまり想像もつかない、目的のためにあらゆる手段を使ってみせる『策士』の顔を僕は見た。

 ちょっとは考える時間を与えるかと思っていた与太話はついに凄まじい閃光によって断絶された。彼が何か力を籠めると、彼の言う超能力が発現した。なるほど、超能力か。嘘だと思いたい、僕はオカルトの類いをあんまり信じていない。どう信じていないかというと、それは多くが人間を惑わせたり面白く思わせたりするために作られているからだ。

 しかし今定一が展開した超能力というオカルトは、何も飾り付けが為されていない、目的のために行使される道具のように当たり前のものとして利用された。僕を驚かすために彼はそれを行ったのではないのだということがなんとなく分かった。


 しかし、僕に何をさせようというのだ。そんな何でもできるようになった気になれる力を僕に植え付けて、一体何を刺せようというのだ。僕の思考は独り歩きして、「ミディレを救う」という曖昧で分かりやすい結論を導き出して僕のスーパーエゴに伝えてきた。


「向こうに着いたら、その注射器を使え。そして友達と『女の子』を二人係で奪い返して戻ってこい。そしたら急いで避難する。いいな?」

「いいな、と言われてもだな。その超能力とやらで何とかならないのか?」

「それは『そこに5000兆円があれば幸せになれる』と言っているようなものだ。黙って言うことを訊いてくれよな、定家」


 閃光がわずかに薄れた時、うつむいた川端の背中が微かに見えた。

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