第40話 ピロソピア・ウィータエ

「え、ちょっと待ってくれよ」

「何を考えているんだ、定一!」


 あれだけ深刻な会話をしていながら、正直僕の脳内では整理がついていなかったようで、ぎこちなくキャッチした可能化剤をひたすら全体力を使って握る程度しかできなかった。


「可能化剤の効果には個体差があることはこれまでの戦いからすでに分かっている。俺なら三時間程度だったが、弟のお前ももしかしたら三時間かもしれん」

「三時間」


 意外と持つ、といえるのか。

 世の中には三分しか戦えない男だっているのだから、そう考えるとだいぶ長いのかもしれない。


「だから、今から軽く試運転だ。何のために迂回して人通りの少ないところを通ったと思っている?」

「な……確かに」


 話しながら歩いていると自分たちがどこに向かっているのかたまに分からなくなる。気が付いたら定一も僕もミディレも川端も藤見も皆、駅とは全然関係ないひっそりとした場所に到着していた。可能化剤の力も切れ、通りで足が疲れてきたわけだ。

 いつの間にか定一は臨戦態勢に入っていた。さっきまで彼が握っていたはずの注射器は見てみると使用済み注射器の入れ物と思われるところに放り込まれており、定一は腕を吹いた。しっかりと消毒液を拭っていた。


「早くそいつを使いたまえよ……、無防備のお前に攻撃するなんてできないからな」

「なぜよりによって身内と戦わなければならないんだ」

「……戦術とかそんな高度なことよりも前に、戦場において大事なことは平常心。窮地に立たされたアスリート選手が深呼吸で落ち着けるのは、日頃の鍛錬で深呼吸を行っているから。鍛錬もしない戦士が戦場で平常心を生成できるとは、思わない方がいいぞ」


 凄みを感じた。

 さっきから普段の定一、いや、兄の抜けた感じが感じられないシーンが度々あったが、今の彼は自分を鍛える顔だった。まるでトレーナーだ。


「俺が君たちに『依頼』した以上は、君たちは満足に仕事を遂げてもらわないと困るからな。川端君も藤見君も、今のままではおそらくミディレを狙う刺客や黒幕に太刀打ちできないだろう。今はそのための下積みだと思ってもらえばいい」

「ふざけるんじゃないよ」


 川端が言い放った。受け取った注射器をへし折り、地面に投げ捨てた。表情には怒りがあらわになっている。藤見も川端に同調するかのような面持ち。二人は確かに初めから僕ほど協力的ではなかった。彼らにとっては、ミディレの話す謎の言語を解読するために自分の持つすべての知識を使って難題に挑んでやろうというつもりなのに、定一にこのようなことを言われる状況など初めから望んでいる筈もない。

 ――自分が戦士? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。自分はあくまで見習いの学者だ。見習いの兵士ではない。自分にできることを自分でやるっていうのが、川端侑の人生哲学Philosophia Vitaeだ。少なくとも、自分が出る幕ではない、と。

 そのことは樋田定家がよく理解していた。何年も彼の隣にいると、彼が何を思って行動するのかはよく理解できる。


「何度でも言うが、私はミディレの言語の解読ならいくらでも知恵を絞ってやるぞ。お前らが頼んだことだし、私の興味の対象でもある。それは藤見だって同じだ。だがな、お前らの戦いに私が出る幕ではない。俺は俺にできることをやるだけだ」

「――そうか、なら君たちは先に帰るといい」

「そうさせてもらう」


 あっさりと事は片付いてしまった。

 そうだ、きっとそれでよかったのだろう。あいつは昔から運動が得意ではなかった。万に一つ戦場に赴いたとしても、後方支援が一番向いている、そんな人物だ。彼よりかは心意気に自信のある僕が定一の依頼を引き受けるのにふさわしい、きっとそうなのだ。むしろ役割分担がはっきりしてきて、俄然やる気が増してくるような気がした。我こそがミディレを守ってやるんだという、そういう気持ちである。過去の英傑だって、目的意識だけはしっかりしていた。なら僕もそれに倣って、目的意識をはっきりさせておいた方がいいのだろう。その意味で、川端の判断は正しい。


 二人はやがて場から消えた。しかし、ミディレは留まっていた。真っ先にお巡りさんに丸投げしようとして、悪かった。あの日君が警察から逃げた理由は僕にはわからないが、『あなたに助けてほしいの』という訴えだと勝手に妄想しておこう。

 兄をもう一度見てみると、右手から怪しいオーラを出していた。『超能力による戦闘』――すなわちゼースニャルメーテス戦、彼はそれを見せてくれるというのだ。


「あの二人については、別に深追いする必要はないだろう。俺はお前ひとりが戦闘員に加わっただけでも奴らに勝てるように手を動かすだけだ」

「いいのか、川端のこと」

「ははーん、お前にとって川端君はよっぽど大切な友達なんだな。相当気にかけていると見える。まあ、心配しなくていいさ」


 それでは、と接続詞を挟んで彼は表情を引き締まったものに切り替え、


「じゃあ、初戦と行こうか。満足に訓練はできないと思われるが、そこは強運で何とかしてくれ――かかって来い!」

「無茶を……!」


 僕は勢いよく兄に襲い掛かった。

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