第38話 必携の単語帳
とまあ、あんまり喫茶店に大人数で行くべきではないのだが、僕ら五人は喫茶店に到着した。僕らは午前中に出発したのだが、昼食をいまだに食べていないことに気が付いた。にもかかわらず誰一人として軽食すらも頼んでいないのは、この五人がこの店に慣れていないからに他ならない。筆頭は川端。彼はひどい空腹音を響かせながら僕にこう言った。
「おなかがすいた、さっさと済ませてサイ○リヤに行こう」
「お前らなあ」
代わりに僕は、久々にこのキマりにキマった喫茶店で食べ物を注文することにした。五人とも同じでいいだろうと思ってホットドッグを五本買うという離れ業を成し遂げた。
「Ton ki...」
「とんき?」
「Wii, an ehonna most」
ミディレが何かをつぶやいたのだが、音声が聞き取りやすかった代わりに何も意味は分からなかった。トンキ。なんだかミディレがそういうと可愛らしくないこともない。何も悪い顔をせずミディレはホットドッグを頬張るのだが、空腹にも負けずに川端がメモ類をスタンバイしているのを見てさすがに自重した。この男は良くないが悪くも空気を読まないのだ。
「さて、さっさといろいろと調べないといけないぞ。すでに分かっていることは等式文と基本語順。せめて過去形未来形と1000語程度の単語がわからないと最低限の会話もできないだろうな」
受験生という今のままではぼんやりとした苦行を認知していた僕にとって、単語をn語覚えるという表現を一度は聞いたことがある。それを今からやるらしい。川端はよく見ると受験生がよく持ってそうなシス○ム英単語を持参していたようだった。ここに載っている単語を片っ端から聞き出そうというわけか。なんとも地道な作業だ。
すると藤見は渋い顔をしながらまた別の単語帳を出した。学校のコミュニケーション英語の時間で使うWo*d Na*iという単語帳である。
「受験生必携と聞いて判断が甘いようね、川端侑」
「なに?」
「私たちはまだ受験生じゃないんだから、いきなりそんな難しい単語を覚える必要はない。これの序盤300語ぐらいで十分よ」
ドヤ顔で話す彼女だが、川端は一切顔を曇らせない。川端はスマホを取り出してGoogleを召還した。
「ま、まさか……」
「そう、スワデシュ・リストを使う」
「すわでしゅりすと?」
知らないのか、と笑いながら川端に言われるのは割といつものことなのだが、ムカつくことには変わりない。
スワデシュ・リストとはモリス・スワデシュが提唱した「基礎語彙」リストのことらしい。詳しいことは某百科事典に一覧が載っているのでそれを見ればよいのだが、これが言語学的に基礎語彙とみなされている単語たちらしい。全部で207語が指定されている。数時間を使って二人は100語ほど判明させたようだ。
「なるほど、am 私、aam あなた、kar 彼、amz 我々、aamz あなたたち、bwins 彼ら、まあこの辺りはすでに分かっていたんだがな」
「疑問詞という疑問詞が見当たらないんだけど」
「そりゃあ西洋語に準拠しているからな。必ずしもそれに当てはまるとは言えない。現に疑問詞を関係詞に使ってはみたものの意味不明という顔だ」
そんなニューラルネットみたいなことをしていたのか。
二人はノートを持参しておりすでにそれは数ページほど消費された。ラテン文字で転写されるミディレ語はいつの間にか整備されていた。左右反転した6withちょんはいつのまにzで転写されている。なので「それ」がzamになっているのだ。
「だが……それ以外は割と西洋語の常識が通じるかもだ。だが、音素列は全く似ていない」
「というか、oが『一』とはいっても英語のoneと同じように考えていいはずがないものね」
「単純に一つであることを表すだけで、定・不定の区別はないと考えていいだろうなあ。指示代名詞も冠詞になるわけではなさそうだ」
解析が進められているらしいことは二人の熱烈な会話によって伝わった。ところで、僕に何かできることがないかと考えてみると、実は僕には特技が一つある。
「ところで、ミディレ文字は?」
「なに、あるのか?」
「ある、というか教えてもらった」
「は?」
は?といきなり煽られても法廷で会おうとしか言えないのは当然。出発する前日だったか、言語が通じないながらも彼女につきっきりで文字を教えてもらっている。
「アルファベットみたいな感じだったよ」
「おお、おお! アルファベット! 音素文字! 数日で覚えられる!」
18歳以下の川端は万歳三唱した。
川端の使っていたノートを改ページし、そこにアルファベットを羅列させながらミディレが自ら対応させたミディレ文字を書いていった。書けば書くほど二人が驚嘆の声を漏らすのを、果たしてこちらが聞き逃さないだろうか? なぜながら一文字書くたびに「うわえ!」とかよくわからない奇声を発してくるからである。
「あの、いちいち反応がやかましいな」
「だって、感動したぜ。何もできないと思っていたお前がすでに彼女と筆談できるまでになっていたとは。助かった」
助かった、か。
本当にすごいのはミディレの実力。彼女は僕や川端が残したミディレ語が書かれたラテン文字からラテン文字を当てて見せたのだ。この二人のすごさについては十分わかっていたのに、ミディレまでもがそれほどの実力を見せて解読して見せる。
僕は確かに置いて行かれていたのかもしれない。だからこそ川端の言葉とはいえ、それは嬉しかったのである。
「さて語彙は分かった。次は形態論だな」
笑顔で川端は改ページした。
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