第4話 知恵ある昆虫

 少女は自分の姿を見て恐れているのか、それとも僕とは別の何かヤバいものを見てしまったのか。僕は別に何か衝撃的なことを言っていないし、そもそも彼女の母語で面白いジョークなんて言えないし、今までの流れで特に驚くところはないはずなのだが。

 僕は対応に困った。どうしよう、とりあえず歩を進めなければならない。警察に引き渡せば、後のことは何とかなるはずだし、自分の名前をここで敢えて言う必要もなかったのではと今になって思う。

 いや、そんなこと、このまま歩き続ければそのうち達成されるだろう。もうこんなに遅い時間だ。すぐに任務を遂行してしまわないと、彼女の身も危ないし、もし変な人間に絡まれたら危険なのは明らかだ。僕は嘘んこ拳法と京都人スキルしか使えないんだぞ。


「Aam gga Toitaa... zan Toitaa=Hagnanske... wii baro, aam en anon Yuugokku wang? Aam fo ktese en dii naa ansum fu? Kka, dii bwa h'aam torbadisteinna...?」


 独り言、というにも隠しきれていないほどの驚嘆の声が次々と彼女から漏れてくる。驚くほど声が出ないとはよく言ったものだ。驚くほど「会話」が出ないの間違いではないかと思ってしまう。彼女は母語でひたすら同じようなことを繰り返すだけで、それ以降の手続きを全く遂行できない状態になっている。

 そして、気になるのが、ずっと僕の名前を言っていることだ。しかも、「樋田」というよりは語尾が伸びて「トイター」とも聞こえる。僕はそれが気にかかった。


「トイター?」

「Yee, Toitaa, am an gga naa! Am ankyanpa sumex he bwin Toitaa wangtei rang fo firazehath...」


 やはり全く分からない。だが、これ以上彼女が何を驚いているのか追求してみたところで、彼女の母語を解析したりいろいろしたり調べないと、どうにもわかりそうにない。

 樋田、トイター、樋田、とずっと繰り返している。もしかして、僕の名前が何か偉大な人物と勘違いされているのか。とんでもない。僕はただ、京都市内の一般高校生で、成績も見事にど真ん中で、趣味はソシャゲとカフェインで、普通に友人がいて、ちょっとシャーペンに興味があって――いや、一般高校生のスペックなどどうでもいい。ついでに最近はなぜかネクタイを結ぶのが調子悪いこともどうでもいい。

 歩を進めよう。

 さっきに比べて歩くスピードが格段に落ちている。


 結局彼女が先程みたいに落ち着いた(さっきまでも落ち着いているかと言われれば疑問であるが)様子はついに薄れ、ひたすら僕の名前を繰り返したり、たびたびこちらの顔を見たりした。

 そして僕は考えたのだが、やはり何か別の歴史的な人物だったり、芸能人か誰かと間違えられていないだろうか。むしろその可能性の方が高いだろう。誰と間違えられているのだろう。

 といっても、僕は神羅万象有象無象あらゆることに対して無知であるので、今はどんな芸能人が流行っていて、誰が人気があってとか、そういうのは全く分からない。加えて社会科は前話で述べた通り苦手なので、脳内検索すれば歴史上の偉人がパッと出てきて「ああー、あいつかー」ってなるような知識も当然ない。かなしい。


 とにかく、彼女の言う「トイター」ではないことを伝えないと、これからいろいろと大変かもしれない。しかし、どうやって? そもそも、「私は○○である」すらいえないのに――いや待てよ、むしろ「私は○○である」が言えればいろいろと困らないんじゃないか?

 おお、さすがは樋田。あとはどうやってこの表現を聞き出すかだな。どんな時でも相手に寄り添うのが京都人の基本だ。僕ならどんな時に「私は○○である」と発言したくなるだろうか。当然さっきの自己紹介の時も「私は○○である」とは発言していたはずだ。しまった、録音しておけばよかった。

 つまり、「私は○○である」をあえて言わせるのは会話の流れを考えて不自然だ。うーん、大問一問目からこれか。もっと広がりを持たせなければ。


 ってことは、そうか。「○○である」に相当する文を聞き出せばいい。何かいい方法はないものか――


 樋田がゆっくりと思考を巡らせていると、交番が見えた。まあいいや、難しいことは彼らに任せよう。樋田は交番を指さして彼女に言った。


「ほら、あれだよ」

「Bwim je... masurnaaran erminarman? Baro, je niima takur.」


 リアクションをしようと試みているが、やはり何かは分からない。それでも何かしゃべってくれるだけ、さっきよりはましだったかもしれない。


 すると突然、目の前に何かがガサッ、と降ってきたような気がした。

 それは黒い。

 それは触覚が生えている。

 それは人類の敵である。

 それはあまりに気持ち悪いシルエットを持っている。

 というかシルエットでなくても悍ましい。

 そして……驚くべき生命力を持つ、まさに文明人の最大の天敵。髪の毛一本で生きながらえる消化効率。我が身を恐れる弱き存在をすぐさま認知し、少しでも生存確率を上げようとする「知恵ある昆虫インセクタ・サピエンス」。

 奴らは集団で生息し、長い歴史の中、人間の生活を熟知しながら、しぶとく生き延びてきた――


 ミディレは鳥肌を全身に発現させ、無意識のうちに敵性生物を認識し、わずかな跳躍を伴いながら、大声で叫んだ。


「D, D, d, D, DIM JE'M...!?!?」


 それに負けじと樋田も男の悲鳴を上げる。


「ぬうあんんじゃこれはああああ!?!?」

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