第13話 大器晩成
舞い上がる湯気、並べられた大器、麺は並々に張られたスープに浮かび、僕の目の前に鎮座している。隣には僕のものより若干小さめの器におそらく同じ種類の料理がテーブルの上に居座っている。待ちわびていたぞ、我が塩ラーメン。店に入ってからずっとお前を前にテーブルに座って、腹を満たしたいと思っていた。
先程までの恐怖体験は、夢だ。気のせいだ。川端の陰謀だ。任意のドッキリ番組でネタにされただけだ。ラーメンを見てしまったからにはスープの残りの一滴まで容赦なく飲み干す覚悟で胃袋を開けて唾液を大量生産しなければならない。それがラーメンに対する礼儀というもの。
初手の一啜りをする前に、ミディレの「なんだこれは」という表情を見て声をかけなければならない。メモ帳を見てみよう。もう発音は完璧よ。とりあえずdと3みたいなやつはジャ行で読み、「反転した6withちょん」は舌先を上の歯につけるような感じで発音する。ちょっと日本人には慣れないが、ミディレのためなら母語なんて気にしていられるものか。
メモを確認しながら、自信をもって話しかけた。
「
「
そうだ、ラーメンなのだ。それ以上の説明はさすがにできそうにないかな。なんせ、ラーメンが小麦粉から作られるということからしても、そもそも僕は英語で小麦粉すらいえない。なんだろうね。スモールビールパウダー? いや、やっぱり分からないな。麦のことをなぜ脳内でビールと言ったのかは甚だ謎だ。
さあ、余計な食レポはしないぞ。僕はこの店の常連だ。ご近所であれば気軽に立ち寄れるほどこの地域に密着したラーメン屋という存在だ。チェーン展開していたかは分からないが、いずれにしてもこの辺りではとても親しまれているのだろう。故に、ここに訪れると割と知り合いに出くわしたりする。一直線レール型人生に失敗したものにとっては地獄のようなラーメン屋だが、僕と川端はそれを何とか回避したというわけだ。いや、だからと言って僕はレールから外れたご近所の子たちを疎外するようなことはしないが。
恐る恐るミディレはラーメンを口にした。スープからではなく麺から食べた。これはおそらく僕の食べ方を真似しているのだろう。ちょっと熱いので悶絶しながら飲み込んでいく。嘔吐することもなく、こちらを振り向いて笑顔でこう言ってくれた。
「
「ああ、おいしいな、Yee yee」
こういう時に言うセリフって、大体「おいしい」とか「うまい」とかだと思う。だから先程聞こえた単語――エトメズって言ったか――もおそらく「おいしい」という意味だろうと推測してみる。なるほど、構文が分かればちょっとずつ何を言っているのか分かってくるものだ。
軽く完食。食べてしまえばラーメンなんてただの器になり果てる。悲しいものだ。
店に長居することは僕の主義ではない。食べたらさっさと店を出て、より多くの客とこの味を共有すべきだ。店員の高らかな声とともに、暗い夜道に僕ら二人は再び躍り出た。街灯の光がとおりの奥まで続いて、広がった文明を感じる。信号は少ない人々の行く手を阻む。そして、広がった文明とは対照に、すっかり闇に覆われた京都盆地の山岳を仰いだ。
先程来た道とは逆の方向、最寄り駅への出入り口を通らず、そのまま大通りを突っ切っていくルートを使った。こちらに害はなかったとはいえ、れっきとした不審者案件だ。あの道を夜間に通ることはどうもできなかった。
あの男の言葉を必要もなく思い出した。よくも否定的な言葉を吐いてくれたなと、僕はすこし怒りを覚える。ミディレの興味津々に街をきょろきょろ見回す顔を見ていればそんな気も失せるのだが、その顔の裏に何があるのか、無知な僕は逆に知りたくなった。やはり、この子には事情がある。あの男には関係していないかもしれないが。
出身国も分からない、祖国も分からない。警察に引き渡そうとすると拒否された。もしかしたらこの少女の身にして、国際的な手配を受けた凶悪犯罪者なのか。逃げた時のあの判断の速さ、軽快の鋭さ。言葉を理解できないにも関わらず、この世界で生活することを投げ出そうとはしない。疑えば疑うほど謎が深まる。
やめよう、考えることを。あまり介入してはいけないのかもしれないから。
だが決して僕が非力であると認めた訳ではない。非力であると思っては、何もできないんじゃないのか。お、ちょっと僕いま心の中でいいこと言ったな。口にも出してみよう。なんせ、彼女は日本語がまだ分からない。いずれは日本語もある程度理解できた方がいいのだろうが、それは後回しだ。
「非力であると思っては、何もできない」
「何言ってんのお前」
「ぬ、何奴!?」
ずっと後ろを付けていたのか、暗殺でも企てていたのかとでも言わんばかりの近距離だった。
というか今の僕の唐突な発言を聞かれてしまったのか。なるほど、こいつは生かしてはおけん。まるで古びた布団を身にまとって一人ファッションショーをしているところを兄に見られた年ごろの女の子のような、とても気恥ずかしい状況だぞこれは。どこかの界隈の雑談のダシにされかねん。
「まあ、そういう年ごろではあるよね。今の発言は聞かなかったことにしてあげる」
「お前は何も聞いていない、いいな?」
こいつ――かつての同級生の藤見という女子――の悪癖にも困ったものだ。
なぜこうも僕の友人には行動が意味不明なやつしかいないのか。
「Bwim je'r?」
「えーっと、Phujimi」
「Phujimi?」
「Yee」
藤見は右肩の鞄を持ち直した。
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