第45話 エピローグ ただ、このときを

 ラスカーナ地方の南端にある小さな山、モルカウ山。

 一応は山々が連なって形成される山脈なのだが、あまりの規模の小ささからそれを山脈と呼ぶものは少ない。


 けれど、多くの者たちはその名に、規模以上の恐れを抱いていた。

 モルカウ山には近づいてはいけない。

 あの山には悪魔が住んでいる。

 山へ立ち入ることができるのは、神を呪い、天に唾を吐いた外道のみ。

 神の信徒が立ち入れば、血染めの魔女に率いられた千の悪魔が、その魂を髄まで食らい尽くすであろう……と。


 だが、そんな噂の向こうにあるのはルーセシアという、小さいながらも活気に満ちた、どこにでもある普通の町並みだった。


 いや、普通というには確かに少々趣が異なる。

 山と海に囲まれた天然の要塞、ルーセシア。

 海の青と、山の緑に包まれた、傷ついた者たちを分け隔てなく受け入れる町。

 悪魔の棲む山から見下ろす風景は、自らの生まれや、姿、力を恨み、世界のすべてが灰色に見えるほどの絶望を抱えて訪れた孤独な流離人さすらいびとたちに、忘れかけていた感謝を思い出させるような安らぎに満ちていた。



 そして、そんな国を治める、城というには些か小ぢんまりとした屋敷の裏庭で日陰に腰を下し、アスラルはぼんやりと空を眺めていた。


 メリカールとの戦いから、もう3ヶ月が経っていた。

 あれほど繰り返し続いていたメリカール軍の攻勢が、あの一戦を境にパッタリと途絶えたのは、不気味といえば不気味であった。


 史上類を見ないような大軍勢を編成しているのだろうか。

 それとも先の敗戦を受けて、本格的に搦め手から攻める方策に切り替えたのか。


 いくら考えても、不安の種は尽きそうも無い。

 それに……。


「考え事かしら?」


 不意に聞こえた声に、アスラルは思考の海から身を引き上げる。

「……いいえ、大したことではありません。ただの取り越し苦労です」

 声に応えるべく立ち上がり、眩しさに思わず目を細めた。

 ちょうど逆光になってしまったせいだろうか、けれどそんな中であっても、それはよく見えた。


 陽の光を受けてキラキラと輝く、繊細な金糸のごとく美しい髪。

 そしてその髪に包まれた、静かな湖のような蒼い瞳。

 アスラルが身命を賭してでも守りたいと願い、永遠に変わらぬ忠誠を捧げた、その人の姿が。


「よろしいのですか? あまり動くと、お体に障るのでは……?」

「平気よ、ここ最近はずっと調子がいいもの。それに、幾らなんでも日がな一日ずっと家の中に閉じこもりっぱなしじゃあ、かえって体によくないわ」

 ……それに。

 たとえそれがひと時のものであっても、今が平穏であることに違いはない。


 なら自分にできることは、今度こそその平穏を守りぬけるよう努力するだけだ。

 そんな風に思いながら、アスラルは眩しさに慣れてきた目を擦り、自らが剣を捧げた主に恭しく礼をする。

「確かに、仰るとおりです。ご機嫌麗しゅう、リース様」

「ご機嫌よう、アスラル。今日会うのは、これがはじめてかしら?」


「はい。今朝は早くから山のほうで新兵たちとの訓練がございましたので、屋敷を留守にしておりました。戻ったのは一刻ほど前です」

「まあ、ご苦労様。……あら? そういえば、昨日は浜へ行くと言ってなかったかしら?」

「はい、言いました。……まったく、人使いの荒さには呆れますよ」


 こめかみを押さえる格好をしながら、アスラルは「はぁぁ」と盛大な溜息を零した。

 メリカールとの戦いの中、カリウスの兇刃に倒れたとばかり思っていたリースは、パナヴィアによって……かつて、アスラルの命を繋ぎとめた力によって救われ、今は旧エストリア王族の生き残りとして、屋敷に厄介になっている。

 ならばとアスラルもリースを守るべく屋敷に戻ることを申し出たが、ペットでも近衛でもない者を屋敷に入れるわけにはいかないと、側近のルミエールに冷たくあしらわれた。


 それでも諦めることなく食い下がった結果、仕方なしといったふうに宛がわれたのが、『武芸指南役補佐 兼 警備兵見習い』という、偉いのか下っ端なのか何とも判別の付きがたい役職であった。

 それからというもの、それこそ昼夜を問わずこき使われる毎日であり、ろくにリースと顔を合わせる機会も無い。

 もっともそれはエストリアの騎士であった頃とそれほど変わらないので、苦にはならない。それどころか、あの頃よりもよりリースを身近に感じることができるくらいだ。


 ましてや、メリカールに捕らわれていた頃と比べれば、幾ら感謝してもし足りない。

「別に嫌だと言っているわけではないのです。私にとって訓練はもはや日課ですから、それが一人でするか複数でするかの違いなだけで。……ですが、さすがにこう息つく暇も無しとなると、参ってしまいます」

「それは同感だわ」

「……同感、ですか?」

 同情ではなくて? と、アスラルがそう問おうとした、そのときだった。


「これ、リース! 何をしておるか!」


 二人の頭の上に、ピンと張りのある声が降り注いだ。

 見上げるとそこには、テラスから2人を見下ろすパナヴィアの姿があった。

 何があったのだろうか、どうやらご立腹の様子……というよりは、手の掛かる子供を叱っているふうに見えてしまうのは、孤児院で見せる〝ナヴィお姉ちゃん〟としての顔を知っているからだろうか。

「こんにちは、ナヴィちゃん。御機嫌よう」

「御機嫌ようではないわ阿呆! ちょっと目を離した隙にサボりおって! まだ勉強は終わっておらぬぞ!」

「……サボってきたのですか?」

「気分転換ですわ」

 しれっとそういうリースに、アスラルは思わず引きつった笑みを浮かべてしまう。

 そのときだった。

「アスラル!」

 ぱしん、と弾くような声と共に、小さな影がアスラルの視界の端に舞った。


「だあぁぁぁっから、お前はぁぁぁっ!?」


 それがなんであるのかを頭が確認するよりも早く、アスラルの足は屋敷へと全速力で駆け出し、降ってきたパナヴィアを全力で……腕、胸、腹、脚を総動員して受け止める。

 いくら小さいとはいえ、仮にも屋敷の3階から受身も何もあったものではない格好で飛び込んでくるものだから、どれだけ上手く受け止めてもその衝撃で尻餅をついてしまう。

「……頼むから、跳ぶなら跳ぶで、せめてクッションなり何なり寄越してくれ……」

 アスラルの苦情に、パナヴィアは「フン」と鼻を鳴らすだけで応えた。

 テラスに投げ戻すのなら俺がやってやるから……などと言ったら確実に機嫌を損ねるだろうから無言を通すが、それにしたってアスラルにとっては死活問題もいいところだ。


 なにせ、今のパナヴィアの命には自分だけでない、主君であるリースの生き死にまでもがかかっているのだから。


 そんな心労など気にも留めぬといったふうに起き上がったパナヴィアは、つかつかと足早にリースへと歩み寄った。

「まったく……妾が忙しい公務の合間を縫って勉強を見てやっておるというのに、お主と来たら! そのようなことで一人前の女王になれると思うてか!」

「……その台詞、普段のお前にそのまま言ってやりたいよ」

「なんぞ言うたか!?」

 ギロリ、と音がしそうな睨みに「別に」と答えて立ち上がると、アスラルもまたパナヴィアを追ってリースのもとへと戻る。


 その忙しい公務とやらの隙を見つけては屋敷を抜け出し、子供たちと遊びに出かけるパナヴィアが言えた義理ではないだろうに。


「分かっておりますわ。けれど、あんなに難しい本を50冊もなんて……」

「何も今日明日で読み切れとは言うておらぬ、暫くの課題じゃ。とはいえ、せめて今日中に1冊は精読してもらわねば困るぞ。夕食のあと、妾が直々に試験をしてやるからの」


「ぁ……っ、きゅ、急にお腹が……」

「り、リース様、お気を確かに!」

「この阿呆が! 見え見えの芝居に騙されるでないわ!」


 それも普段のお前に言ってやりたいよ……という言葉を飲み込み、黙ってパナヴィアに蹴られておくことにした。

 なるほど、確かにリースが「同感」と言った理由も頷ける。

「私も共に参ります。ですのでリース様、もうひと頑張りいたしましょう」

「そちは訓練じゃろうが。兵たちが待っておるぞ、錬兵場まで駆け足! しっかり鍛錬に励めぃ、武芸指南役補佐!」

「お、おい、ちょっと待て。俺はさっき新兵との訓練から帰ってきたばかりだぞ?」

「そうか、お勤めご苦労。じゃが、訓練を必要としておるのは新兵だけではあるまい? 近衛との実戦を意識した乱捕り相手もそちの役目じゃぞ。さあ、さっさと行かぬか!」


 人使いが荒いぞ……などと言っても無駄なことはこれまでの付き合いで嫌というほど分かっている。

 アスラルとしては苦情の意図をたっぷり込めた溜息で返すほかなかった。もちろん、その意図が汲み取られたことは一度として無いのだが。


「……仕方ない、なら行ってくる。リース様、あまりご無理をなさらぬよう」

「ええ、ありがとうアスラル。アスラルこそ、怪我をしないよう気をつけて」

「むしろ妾としては、そちが一度でも青痣こさえて帰ってくるところを見てみたいがの」


 ジト目で見つめてくるパナヴィアにやれやれと肩を竦める。

 それでもやると言ったからには本気で訓練に掛かるべく気持ちを切り替え、アスラルはその場を後にしようと踵を返した――ところで。


「アスラル、いってらっしゃい」


 不意にかけられた声。

 なんてことのない、見送りの挨拶。

 それなのに、どういうわけだか背筋がむず痒くなって、嬉しいやら恥ずかしいやら、なんとも言えない気分になってしまう。


「い、行って参ります、リース様」

「午後のお茶の時間には戻ってこられそうかしら? 最近、ようやく上手にお茶を淹れられるようになったのよ」

「リースさまが手ずから、ですか。それは楽しみです。では、午後にまた」


 胸に手を当て、略式の敬礼をして感謝を示す。

 そして、今度こそ訓練に赴くべく練兵場へ……向かおうとする背中をリースに見送られるのが、こんなにも照れ臭いなんて思いもよらなかった。



 変わったな、と思った。

 エストリアにいた頃から、確かにリースは美しく、可憐な女性だった。

 けれどここに来てからは、その美しさの中に一本芯が通ったような気がする。


 きっとそれは、同年代の友達と、はっきりとした目標ができたおかげだろう。

 そういう意味では、パナヴィアのあのまったく遠慮の無い振る舞いにも、少しは感謝せねばなるまい。

 アスラルでは、どうしてもリースと対面すると背筋が伸びてしまって、もう身分の差など無いとは分かっていても、友達らしい友達としてはなかなか振る舞えないから。


 そして……。


(いいや、それは言うまい)


 一瞬、心に芽生えそうになった苦いもの。

 それを振り払うように、アスラルは見送る2人を振り返ることなく、練兵場に向かって走り出した。 

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