第35話 決戦の時 ~ルーセシア~

 アスラル自身、自分でも驚くほどだった。

 これでも目はいいほうだと思っていた。

 襲い来る剣の切っ先を、槍の穂先をブレることなく見据え、一切の無駄を省いた紙一重で見切って回避することのできるこの目があればこそ、幾多の戦場の中を今日まで生き延びてこられた。

 ある意味で、剣の腕以上に大切な相棒だ。

 しかし、まさか。

 直線距離にして恐らく半里近くは離れているだろう、元ルーセシア国境砦の防壁の上に立つ人間の判別ができようなどとは、思ってもみなかった。

 もしかしたら、これが憎悪の持つ力というものなのだろうか……などという軽口が脳裏を過ぎり、アスラルは独り、自嘲を噛み殺した。


 話に聞いたときは、馬鹿なと思った。

 あの蛇蝎のごとく陰湿で狡猾な男が、わざわざ最前線に出向いてくることなどあるはずがない、と。

 だが、こうして自らの目でその姿を確かめてしまったからには、もう疑いようもない。

 同時に、これでようやく、パナヴィア毒殺などという無理難題をアスラルに命じた理由も合点がいった。

 密偵の男の言を信じるなら、今までに何人もの刺客が魔女暗殺に挑んで、そのことごとくが失敗しているのだという。そんな相手を殺すなど、暗殺どころか隠密の経験すら無いアスラルにできようはずもない。

 だというのに、そんな命令を出さなければならないほどカリウスは追い詰められているのか……という予想は、こんな形で肯定されることとなった。

 どんな事情があるかは知らないが、何が何でも勝たねばならない理由がカリウスにはあって、そのもっとも確率の高い方法がアスラルを使った暗殺なのだろう。


 もはや決定的だ。未だ兵力差は圧倒的不利だが、そんなもの無きに等しい。

 軍を率いている総大将の格、という点で、すでにカリウスはパナヴィアの足元にも及ばない。

 この戦い、仮にこのまま真正面からぶつかってもルーセシアの勝ちは揺るがないだろう。


 ……そう。

(パナヴィアならどんな状況からでも、絶対に勝ってくれる。あの男がどんな小細工を弄しようと、パナヴィアが負けるわけが、無い)


 そう、信じられるからこそ。


「どうした? 柄にもなく緊張かよ、剣豪サマ?」

 アスラルの思考を中断させたのは、頭上から降ってきた野太い声だった。

「……そうだな。仮にもこんな大戦おおいくさの、しかも最前線だ。緊張もするさ。それと、その呼び方は勘弁してくれ」

「何言ってやがる、剣豪も剣豪、大剣豪じゃねえか。アンタが最前線に来てくれたからこそ、パナヴィア様も中軍に下がろうって気になって下さったんだからよ」

「そうとも。今日までずっと、いつも戦場の真っ只中にいたパナヴィア様が、この大一番で指揮に徹するなんてありえねえ。けど、クロス=クレイモアが加わってくれたとありゃあ、納得もいくってもんさ」

 自身の頭上でオーガとトロールとが揃って笑いあうのを聞いて、アスラルもまた気恥ずかしさと若干の呆れの混ざった苦笑を浮かべた。

 あの女王様は自分の命の大切さをまるで分かっていないらしい。

 彼女が死ねば、アスラルもまた死んでしまうというのに。


(……きっとそんなことも忘れるくらいに、兵の一人一人が大切なんだろうな)


 不思議とそんなふうに思えてしまうのは、彼女の中にある無邪気さと、ルーセシアに対する感謝と愛情を知ってしまったからだろうか。


 同時に、随分と自分も過大評価されたものだと思う。

 先の一戦で活躍しなかったとは言わないが、それでもたった一度きりのことで、パナヴィアにくっついて、ひたすら彼女の周りにいる敵を薙ぎ倒し続けただけだ。

 作戦立案、陣頭指揮、そして敵指揮官へのとどめ、すべて彼女が成し遂げたことだ。いわばアスラルはそのオコボレに預かったようなものだというのに、いつの間にやら剣豪扱いとは何とも気恥ずかしい。


 けれど、そのおかげでこの場所を得られたのだ。



 メリカールに……カリウスに、最も近い、この場所を。



 ドン! ドン! ドン! と。

 オーガの豪腕が打ち鳴らす陣太鼓の音が、再びアスラルを思考の海から引き上げる。


 もはや逡巡のときは終わった。

 後は、ただ天の采配に任せるのみ。


(エルカーサ様……私の魂はどのようにされても構いません。けれど、どうか……リース様への罰だけは、どうかお許しください)


 咆哮が響き渡った。

 まるで雷鳴を思わせるほどの雄叫びが、メリカール軍めがけて降り注ぐ。

 続いて中軍から……パナヴィアの直衛であろう人狼ヴェアヴォルフたちの遠吠えが木霊する。

 それを進軍ラッパに見立てるがごとく、アスラルたち最前線が前進を開始した。


「主君の罪は、騎士である自分がすべて背負います」


 そう呟いたアスラルの言葉は、巨躯の踏み鳴らす足音に掻き消えていった。

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