誓剣のクロスクレイモア

いつき樟

第1話 プロローグ

 雨が降り始めたのは、どのくらい前だったろう。

 つい今しがた降り始めたようにも思えるし、戦いが始まってからずっと降っていたようにも思える。

 胸当ての下に着込んだぼろきれのような鎧下は、すでにぐっしょりと濡れている。それが雨のせいなのか、自身の汗のせいなのかは、アスラルには判別がつかなかった。

 どのくらい動き続ければここまで震えるのかというほどに、酷使された手足は痙攣を繰り返す。鼓動は荒く、呼吸も乱れを通り越して所々途切れているように聞こえる。

 しなやかな筋肉のついた、しかし胸当て以外にろくな防具も無いむき出しの体には無数の刀傷が走っており、汗と雨に濡れているせいで乾くことの無い血が、いたるところに滲んでいた。

 もはや立っているのもやっと、といった風の、満身創痍。

 あと一撃。

 いいや、ほんの一押しでもしてやれば、そのまま力尽きて倒れてしまうのではないかと思うほどの、半死人。


「……まだ、死ねない……死ぬわけには、いかない……」


 ……だというのに、そのアスラルを囲んでいる男たちは、まるで蛇に睨まれた蛙のように身動きひとつ取れないでいた。

 端から見れば、それはひどく滑稽な絵に見えたことだろう。

 年の頃は二十歳に届くかどうかといった若造は、深い栗色の髪から滴る汗とも雨ともつかぬ雫を拭うこともできずにいた。前のめりになった体を支える足はぶるぶると震え、乱れた呼吸に上下する肩の動きひとつで今にも崩れ落ちそうだ。

 指一本動かすことさえかなわないであろう、倒れないのが不思議に思えるほどの、半死人。

 それを取り囲む何十という巨躯。茶褐色や濁った緑など人間のものとは異なる色の肌をし、額に骨が変化したものなのだろう小さな角を生やした、異形の者たち。その手には、人間など簡単に殺せるであろう大小さまざまな得物が握られている。

 だというのに、動けない。

 その半死半生の、彼らより一回りも二回りも小さいはずの相手を前にして、射竦められてしまっている。

「ひ、怯むなぁっ! かかれ、かかれぇぃっ!」

 野太い怒声に弾かれるように四方から襲い掛かってくる幾つもの巨剣、戦斧、大槌、棍棒。半死人にくれてやるにはご大層すぎる殺戮兵器を手に、異形の者たちが殺到する。


「がぁあああぁあぁっ!」


 その瞬間、咆哮があがった。

 まるで獣を髣髴とさせるそれが、息も絶え絶えの半死人の口から放たれたものだと瞬時に理解できたものはどれくらいいただろう。

 咆哮に後押しされるように、アスラルの手にした無骨な二枚の鉄板が宙を舞った。

 いいや、鉄板に見えたそれは、大人の身の丈ほどもある巨大な重剣クレイモアだった。

 そのひと薙ぎは襲い来る武器を一瞬にして弾き飛ばし、続くもうひと薙ぎがそれぞれを操っていた者たちの手を、足を、胴を、首を、あっという間に切り裂いてゆく。

 そんな光景が、一体どのくらい繰り返されているのか。アスラル当人も含め、もはや誰一人としてそれを覚えているものはいない。

 いるとすればそれは、その半死人の周囲を取り囲むようにして転がる幾つもの、死体、死体、死体、死体。つい今しがた〝四体分〟が上乗せされ、折り重なるように層を成した死体の山を律儀に数えた者くらいだろうが、そんな者がいればとっくにこの凄惨な舞台から逃げ出しているに違いない。

「……もう、いいだろう……ッ! いい加減に、引け……ッ」

 言っても無駄だと、頭では分かっている。

 しかしそれでも、アスラルはそう言わずにはいられなかった。

 アスラルには、死ねない理由がある。こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。

「俺は……死ねない……お前たちも、死にたくないだろうに……。だから、もう……」

 擦れる声で何度繰り返したか、覚えていない。途切れそうな声は誰にも届きはしないと思っていた。本当にそう思っていた。


「皆のもの、引けぃッ!」


 天を切り裂き響き渡る、この場にいる者すべての……アスラルの思いさえ代弁するかのような、その声がするまでは。

 先ほどから幾度と無く聞こえてきた野太いものではない。

 凛とした、しかしどこか幼さを残した甲高い声は、雨音を跳ね飛ばし、アスラルを取り囲んでいた巨体の垣根さえも左右に割り開く。

 その分かたれた人垣から現れた者……凛とした声の主の姿に、アスラルは一瞬、ここが何処なのか。そして自分が何と戦っているのかを忘れてしまいそうになった。


 雨の中を歩いてきて濡れきっているせいだろう、その色合いがとても濃く、深くなっている、長い、真紅の髪。

 幾つもの泥が跳ね、ところどころに赤黒いものがベットリと付着しているにもかかわらず、それが白……それも〝純白〟であることをなおも主張し続けるかのような、流麗なシルエットをもつ戦装束。

 磨き上げた黒曜石のような艶やかな輝きを放ち、分かたれた巨躯の垣根よりも高く伸びる、飾り気の無い漆黒の長槍。

 赤、白、黒。

 その三色に包まれているのは、声に見合った凛とした表情の、まだ十五にもならないのではないかという、少女だった。


「化物が立ち塞がっているというからわざわざ来てみれば……このような戦場のど真ん中で大の男どもがなんじゃ、だらしのない」

 そう。長槍を肩に担ぎ、フンと鼻を鳴らす少女は、どこからどう見ても〝少女〟だった。

 ピンと張り詰めた顔に配置された整った目鼻立ちは、美しくも愛らしい。自身の倍ではきかないであろう長槍を握る指は、雨に濡れたせいだろうか余計に瑞々しさを増しているように見える。背丈など、周りの強靭な体躯の男たちと並べてみると、大人と子供どころか、まるで大人と赤子だ。

 しかしその少女が発する言葉に、巨漢たちはそれが当然であるかのように頭を垂れる。


 なぜこんな少女が、自分の前に立つのか。

 なぜこんな少女が、怪物どもを鼻であしらっているのか。

 なぜこんな少女が、こんな死体の山を前にして平然としているのか。

 理由は分からない。分かる必要も無い。


「が、なるほど確かに化物とは言いえて妙か。噂に名高い大国メリカールじゃ、このような化物の一匹や二匹、飼っておっても不思議はないか」


 そんな中であっても、分かることはある。


「遠き者は音に聞け! 近くばその目でしかと見よ! わらわはパナヴィア! 貴様らメリカールの俗物が妖魔悪鬼と唾棄せしルーセシアが女王、パナヴィア=ルーセシア! 妾の槍と相見えし誉れ、その身に刻み込むがいい!」


 降りしきる雨も吹き飛べよ、と言わんばかりに高々と掲げられた大仰な名乗りに、アスラルの胸に僅かに躊躇いが横切る。

 ルーセシアの……敵国の、女王。

 この少女を斬れば戦いは終わる。そうすれば、生きて帰ることができる。


 ――女子供を、切るというのか?

 ――女子供を殺してまで、生きる理由はなんだ?


「……こいつを殺せば、ルーセシア侵攻第一の功は、俺のものだ……」

 そう自らの心に問い掛けるのを止めさせるため、アスラル小さく呟く。

 疲労が溜まりに溜まって、指一本動かすのさえ億劫な体に緊張を走らせる。そして両手の指先にまでちゃんと緊張が走ったことを確認してから、


(手柄を立てて、英雄になれば……そうすれば……っ!)


 雨でぬかるんだ泥を跳ね飛ばして、パナヴィアと名乗った少女めがけて低く跳躍した。

「ッシぁああぁあぁっ!」

 アスラルを取り囲んでいた者たちの目が驚愕に見開かれる。

 半死人のようななりをしていながら幾度と無く繰り返される攻撃を退け、死体の山を築き上げてきた狂戦士バーサーカーのごとき戦いぶり。それだけでなく、どれほどの時が経ったのかを忘れてしまうほどに戦い続けてきたにもかかわらず、なおも両手の重剣を振りかざし、あまつさえ自ら攻撃を仕掛けるだけの力が残っているという事実。

「えぇい、名乗り返しもせずに襲い掛かってくるとは! 侵略国家の悪名にも合点がいく、勝つためならば礼儀も不要か!」

 そしてその猛攻を、アスラルの背丈以上に長い漆黒の槍を巧みに操り、次々といなしてゆくパナヴィアの姿に。

「女王陛下! ルーセシアに勝利を!」

「パナヴィア様! 我らに自由と平穏を!」

 その戦いぶりに、周囲から割れんばかりの歓声が沸きあがる。

 女王陛下!

 パナヴィア様!

 ルーセシア王!

 雨音さえ掻き消す怒声の嵐。

 だがアスラルは、そんな中でもただひたすらに剣を振るった。

 鼓膜がおかしくなるのでは思うほどの怒声が響き渡る中。しかも誰一人として、自身の味方をする声の無い、敵意と悪意に満ち満ちた大音量に晒される中で戦い続ける。

 そういった戦場を、アスラルはここ数ヶ月の間で幾度となく経験していたため、冷静さを保つのは容易かった。

 繰り出される槍の穂先を見極め、軌道を読むことなど、造作も無い。


 ……だが、しかし。


「そらっ! どうした化物!? 名乗りも無しに奇襲をかけて、この程度かっ!?」

 まるで自分の間合いに踏み込めない。

 得物の長さと、それを扱う者の体躯のミスマッチが、距離感を錯覚させる。槍を目印に踏み込めば、標的の余りの小ささに驚く。ならばと敵に狙いを定めれば、その小さな両の手が扱う得物の凶暴さに押し返される。

「この程度で! この程度の太刀筋で妾を斬れると思うてか!? 侮るでないわ!」

 そして、もっと全体を『像』として認識しようと距離を取れば、

「はぁっ!」

 間合いを活かした槍の一撃が、アスラルの肩を貫く。


「……え?」


 そう。それは余りにも美しく、余りにも自然な流れ。

 アスラルの動きに合わせて繰り出された、アスラルの動きを正確になぞるようにして打ち込まれた、避けようのない一撃。

 槍相手に距離を取ることが愚策であることに気付いたのは、右腕から感覚が無くなり、代わりに肩口から恐ろしく冷たい〝何か〟が全身に広がってゆくのを感じたときだった。

 どちゃり、とぬかるんだ音は、右手の重剣クレイモアを落としたせいか。

「ぃやぁっ!」

 ず……っ、と。右肩から冷たい感触が引き抜かれた刹那、鋭い気合と共に左腕に強烈な一撃が叩き込まれた。

 槍を引いた動きを利用して、遠心力を活かした柄での横薙ぎ。

 槍術の型でも見ているかのような洗練された動きは、とても目の前にいる幼い少女が繰り出したものとは思えない。


 だが、思えなくても、それが現実。

 その現実はアスラルの全身から緊張を奪い取る。

 腕が上がらない。膝が折れる。自重を支えて、いられなくなる。

「まだ、だっ!」

 けれど、死ぬわけにはいかない。こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。

 その思いが。その執念がアスラルの足を踏ん張らせ、激痛の走る……すなわち、まだ感覚の残っている左腕を振り上げさせる。

 震える体に鞭打ち、こちらの得物の間合いに相手を捉える。そして、仮に防御されてもその防御ごと吹き飛ばせる重剣の一撃を、叩き込む!

 その一撃を、少女は静かに、真正面から見据えていた。

 避けるでもなく、受けるでもなく、じっと。


 アスラルの左腕が、空を切る様を、瞬きもせずに……じっと。


「よう戦ったな。哀れながらも、見事であったぞ」


 その言葉でアスラルはやっと気付くことができた。すでに自分の左手は、何も握っていなかったのだ。

「……リース、さま……」

 思わず零れた、懐かしい名前。

 戦場において死にゆく者が最期に呼ぶのは、母か恋人の名である……という、嘘か真か確かめようもない話を、我が身で体感する日が来ようとは。

 アスラルの膝から力が抜けた。そしてそのまま、びちゃり、と音を立てて、その体はぬかるんだ泥の中に沈んだ。

 周囲から湧き上がる歓声も、もはやアスラルの耳には届いていなかった。

 ただひとつ。

 消えゆく意識の中。闇の中へと落ちてゆく中、ただひとつだけ。

 自らがつるぎを捧げた、愛しい女性ひとの姿だけが、最後まで闇の中に浮かんでいた。


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