第7話 裏庭のドッグファイト1
澄んだ音が、夜明けの冷えた空気を幾重にも切り裂いてゆく。
早朝の掃除をしていたメイドから長い柄のブラシをふた振り借りて、アスラルは屋敷の裏庭でそれを縦横無尽に振るっていた。
リースの護衛役見習いに任命されてから今日に至るまで、それこそメリカールの剣闘奴隷として過ごした日々の中でも、一日たりとも武芸の稽古を休んだことは無い。
本当は木剣でもあればそれがありがたいのだが、ペットの身分で武器を持つことは許されないだろう。
たとえそれが殺傷能力の無い模造品であったとしても、アスラルのような武芸の心得がある者が扱えば立派な凶器になる。
そういう意味では、ブラシもまた十分な凶器になるのだが、そのあたりはメイドの身では頭が回らなかったのだろう、水浴びで使った浴場の後始末くらいは自分でさせて欲しいと頼んだら、感心したような顔で貸してくれた。
まさかそれを
アスラルが女王付きの愛玩動物として飼われるにあたって最初に手に入れたものは、使用人が行動を許されている範囲でのみ、自由に動き回ることのできる権利だった。
もっともその権利を得るために、
・パナヴィアの命令には絶対服従すること
・屋敷の者に危害を加えぬこと
といった基本的なものから、
・いつナデナデされてもパナヴィアの手が汚れないよう常に身奇麗にしておくこと
・パナヴィアの食事のときにはいつも傍で一緒に食事を摂ること
・おやつは決められた時間以外には絶対に食べぬこと
……といったどうでもいいことまでを、事細かにあれこれと誓わされたのだが。
それでも、アスラルにとってそれは些細なことだった。
パナヴィアに逆らわず、屋敷の者に危害を加えなければ、屋敷の敷地内においてのみ基本的な自由は約束されていると言ってもよい。
それはつまり、パナヴィアの命令が及ばぬ範囲……たとえば彼女が眠っているときなどは、自由にしていていいということなのだから。
「……ふう」
屋敷の3階部分に、ちょこんと……本当に申し訳程度の広さだが、裏庭を眺めながらお茶をするくらいの余裕はあるテラスが迫り出している場所がパナヴィアの部屋だ、見つけるのは簡単である。
そして同時に思うのだ。
何とも貧相な城もあったものだ、と。
下級貴族であったアスラルの実家よりは幾分か立派な造りであったが、これがルーセシア女王の住まう王城であると考えると、ひどく安っぽく感じてしまう。
何せ、どこからどう見ても〝田舎貴族がちょっと見栄を張って建てた豪勢な別荘〟といった様相で、見るものを威圧するようなメリカールの王城はもちろんのこと、祖国エストリアの小ぢんまりとした城にだって及びもつかないのだから。
だというのに。
「メリカール軍2万のうちの半数近くを失っての敗走……か」
先日……たった数日前のことだというのに、やけに昔のことのように感じてしまうルーセシア国境戦。
指揮官が無能だったこともあるだろうが、それでも大軍であるメリカール軍を僅か3千にも満たない兵で敗走に追い込んだルーセシア軍の強さは凄まじいものだった。
兵の一人一人が人並みはずれた力を持っていた……それこそまさに人外の化物であったことも勿論だが、その統率力もまた優れていたように思える。
そして何より、幾人もの味方の死を目の当たりにしても、退くどころかさらに踏み込んできたあの勇猛さが最大の要因だろう。
あの突進力は、一体何を支えに……。
「おい、そこの豚野郎」
物思いにふけるアスラルの背に、不意にそんな粗野な台詞が飛んできた。
振り返ってみると、そこにはアスラルとさほど年も変わらないであろう、精悍さの中にどことなく幼さのようなものを残している顔立ちの青年たちが数人、刺すような視線を投げかけていた。
「裏庭でお掃除か? さすがにパナヴィア様のペットともなると、ご機嫌取りがお上手のようだな?」
「けど、やっぱり豚は頭が足りねえな? 庭の掃除なら、ブラシじゃなくて箒を使うんだよ。それとも、ブラシ2本使った豚用の掃除方法でもあるのか? 見せてもらいたいねえ」
ジロジロと
ああ、ここにはちゃんと人間もいるんだな……と。
幼い
だが、戦場で相対した者たちがいずれも人間とはかけ離れた異形の者たちばかりだったため、こうして人間の姿をした、それも同性の者と出会うと、妙にホッとしてしまう。
たとえその相手が、友好の意思など微塵も抱いていなかったとしても、だ。
「何だコイツ。オレたちをジッと見やがって」
「メリカールの豚には、人間様が珍しく見えるか?」
言いながらアスラルの周りを取り囲むように立ちはだかった青年たちからは、むわっとした、しかしそれほど嫌なものではない汗の臭いがした。
「……訓練、していたのか?」
「はァ?」
アスラルの口から零れた言葉に、青年たちは一瞬何事かと眉を寄せたが、やがてフフンと鼻を鳴らしてそれに応える。
「聞いたか? 訓練していたのか、だってよ。一人前な口利きやがって」
「当然だろ、オレたちは軍人だからな。てめえみたいな食って寝るだけのペットと違って、女王陛下をお
青年たちの言葉に、アスラルは「へえ」と感心した声を返した。
態度や言動は粗野だが、主を守るために早朝から訓練していたとは、兵隊の鏡だなと思う。
アスラルもまたリースを守るのだという使命感のもと、時間があれば朝から晩まで、剣に格闘、馬術と稽古に明け暮れていたものだ。
そういう意味で、彼らは過去の……いいや、今もリースの騎士であり続けるアスラルにとって、自分と同じ立場の者たちということだ。
そう思うだけで、何やら妙な親近感が湧いてしまう。
そしてまた、彼らがどうして自分に対してこんな威圧するような態度をするのかも分かってしまって、不思議と怒る気にも、それを咎める気にもなれなかった。
「なんだ貴様、ペットのクセにその余裕ぶった笑みはよぉ?」
「てめぇ、自分の立場分かってんのか? お情けで生かしてもらってるメリカールの豚野郎が」
「お前なんざ、パナヴィア様に飽きられたらすぐにでも殺されちまうんだぜ? ならせいぜい、パナヴィア様直属の護衛役であるオレたちにも、嫌われないよう努力しておくべきじゃねえのか?
……こんな風に、よっ!」
アスラルを囲んでいた青年の一人が、いきなりアスラルの脇腹を蹴りつけてきた、その瞬間だった。
「ぉわっ!?」
素っ頓狂な声が上がり、青年は蹴り出した足を大きく空中に振り上げた格好のまま、派手にすっ転んだ。
それがアスラルの手によるものだと……蹴りつけてきた足を素早く取り、その勢いをそのまま真上に向かって流すことによって足元を掬ったのだという一連の動きを把握できた者は、何人いただろうか。
「忠告、感謝する。ついでにこっちからもいいか?
確かに俺はパナヴィア〝様〟のペットとして生かされている愛玩動物に過ぎないが、それでも一応は未だ〝愛玩されている〟身分なんでね。
しかもここに来てまだ日も浅い。飼いだしたばかりのペットに怪我をさせられたら、飼い主はどう思うだろうかな……と、一応の忠告だ」
僅かな微笑みを浮かべながらブラシを取り立ち上がる。しかし、それ以上アスラルが動くことはなかった。
「……通してくれないか?」
「言いたいことはそれだけかッ!? ええッ!?」
ようやく状況を把握したのだろう、激昂した青年たちは臨戦態勢でアスラルを取り囲む。
素手ではあるものの、誰も彼もよく鍛えられた、引き締まった筋肉をしている。あの腕で、しかも四方から続けざまに殴りつけられたら、いかな剛の者とてただでは済まないだろうことが分かる。
だが、たとえそうであっても。
「素手は、素手だ」
ポツリとつぶやいた途端、アスラルの手から2本のブラシが転がり落ちた。
まるでそうするのが当然であるといわんばかりの自然な動きに、青年たちは何事かと目を瞬かせたが、
「……の、メリカールのクソ豚がぁ! 調子に乗ってんじゃねえぞ!」
得物として使えるものを自ら放棄したのだということ。
そしてそれが〝無抵抗〟の証ではなく、対等の立場に立つためのものであることを理解した青年の一人が、怒りに任せてアスラルに殴りかかった。
それはそうだ。たった一人の相手に……しかも憎いメリカールから拾われてきた家畜同然の相手に〝対等〟だなどと扱われたのだから。
彼らは年若く、自分たちが女王陛下をお
だが、次の瞬間。その青年は自らの認識が過ちであったと悟ることになる。
殴りかかった腕がアスラルの顔面を捉える寸前、その拳は見事に空を切った。
それがまさか、目の前にいるアスラルの手によって拳の軌道が僅かに逸らされたことによるものだとは気付かなかっただろうが、
「重心がブレてる」
ぱしんっ、と足元を払われ、顔面から地面に突っ込んだことくらいは理解できただろう。
「この……豚の分際で!」
続いて殴りかかってきた青年は、
「懐が甘い」
自らの繰り出した拳の行方めがけて、盛大に宙を舞った。踏み込みに合わせて懐に潜り込まれ、そのままの勢いで投げ飛ばされたと認識できたろうか。
仲間がやられるのを黙ってみているわけにはいかないと、残りの青年たちもアスラルめがけて次々に攻撃を繰り出す。
しかしその度に、ある者は腕を取られてその場で宙返りをさせられ、ある者は仲間同士で互いに殴り合ってしまう結果になった。
時間にすると僅か10秒そこいらの間に、屈強な筋肉の鎧をまとった青年たちは全員揃って1回ずつ地面に転がされたのだった。
「こ、この野郎……ッ!」
だがそれでも、誰一人として大した怪我は負っていない。その証拠に、
当然だ、アスラルがパナヴィアと交わした契約の中には、屋敷の者に危害を加えぬことという項目も含まれているのだ。手足をへし折って戦闘力を奪うのは容易いが、それをするわけにはいかない。
しかしさりとて一方的にやられるばかりでは収まりがつかないのだろう。青年たちは明らかに実力が上の相手に対しても臆することなく、再び襲い掛からんと息巻いている。
(さて、こういう相手を静かにさせるにはどうすればいいかな……?)
相手が諦めるか、負けを認めるまで付き合ってやるのが一番いい方法なのだが、手加減をしながら複数を相手取るのはなかなかに辛いものがある。
恐らく彼らがこれから従事するのであろう屋敷の警備任務に差し支えの無い程度の軽傷なら問題ないかもしれないが、ならばと意気込んで加減を間違えてしまったら目も当てられない。
かといって、大人しく殴られてやる気にはどうしてもなれなかった。
彼らが、自分と同じ立場の者たちだからだろうか。
「別に構わないさ。正々堂々の一騎打ちなんて、そうそうさせて貰えるものじゃないからな。むしろ一対複数の戦いのほうが多いくらいだ。けれど……」
いや、違う。
「その状況で格上の相手にバカ正直に挑むのは愚策だ。時間差を活かすのもいいだろう、三方以上から同時に仕掛けるのも悪くない。
数の有利があるんだぞ、もう少し頭を使え、勝つことを意識しろ。でなければいつまで経っても強くなんてなれない」
幼い頃からずっと武芸に勤しんできたアスラルにとって、稽古や鍛錬はいつも格上が相手だった。
そんな過去の自分と、今アスラルを取り囲んでいる青年たちが、妙に重なったような気がしたからだ。
「ぶっ、豚がァ! 一人前にご教授かよ!」
「それと。一度戦うと決めた相手を侮辱するのもよくない。相手を罵倒して心理的に優位に立つ戦法は悪くないが、実際に殴り合いが始まったらお互いに五分と五分だ。下手な侮辱は慢心に繋がり、慢心は心のみならず構えにも隙を生じさせることになる」
「こ……んのぉ……ッ! 知ったような口を利きやがって!」
取り囲む青年のひとりが踏み込んでくる。しかし、今回はそのまま勢い任せに殴りかかってくるようなマネはしない。アスラルの正面に立ったまま、ただ睨みつけているだけだ。
「そう、さっきよりは冷静になったみたいだな。相手の出方を窺うのは……」
「うるせぇ! メリカールの薄汚い豚がこの屋敷にいるってだけでも胸糞悪くなるってのに、それがパナヴィア様のペットだと!? しかもそのペット風情がオレたちの教官気取りかよ! 何の冗談だ、そりゃあ!?」
「……返す言葉も無いな。俺がお前の立場だとしても同じことを思うだろうから、気持ちは分からなくもない」
それはそうだろうな、と思う。
彼らの言うように、アスラルは〝薄汚い〟メリカールの人間だ。
同胞を何人も、何十人も切り殺したその薄汚い人間が、裁かれることなく女王のペットなんて立場に収まっているのだから。
彼らの怒りを理不尽だなとど責めることは、できない。
「だからといって、ただ黙って殴られてやるというのは、お前たちのためにならないだろうからな。俺を憎いと思うのなら……」
「うるせぇってんだよ! ああ、いいだろうよ! そんなに死にたいってんならそうしてやろうじゃねえか! 本当はちょっと痛めつけてやろうと思ってただけだったのによ、気が変わったぜ! てめえは半殺しだ!」
「……半殺しじゃあ、俺は死なないぞ?」
「やかましい! おい、お前ら下がってろ! 誰も来ないように、見張ってんだぞ!?」
その言葉に頷きあい、互いに方々へ散っていく青年たちに、アスラルは思わずあからさまな溜息を零してしまう。
彼らには先ほどのことがまるで教訓になっていないのだろうか。一人ずつ掛かってきても勝てないことは、実証済みだというのに。
もっともアスラルにとっては、手加減がしやすくなるのでありがたい話なのだが。
「余裕ぶっていられるのも今のうちだ。すぐにオレの本気を見せてやるからよぉ?」
「……そういう台詞、言っていて恥ずかしくないか? もしかして次は『さっきのは手加減していただけだ』とでも言うつもりか?」
「ハッ、月並みか? けど悪いが、事実なんだよ、これがなぁ!」
青年の怒声に、アスラルはやれやれと肩を竦め、再び素手のまま半身に構えた。
だが、それはすぐに過ちであると気付かされた。
ぼこり
という音が適切かどうかは分からない。だがどう見ても、目の前の青年の体が一回り以上大きくなった。
いいや、単に大きくなったのではない。
肩、胸は言うに及ばず、腿に
それだけではない。
つい今しがたまでアスラルのものと同じ色をしていた肌が、今ではすっかりくすんだ緑色に変色している。
そして極めつけが、誰の目に見てもはっきりと分かる、額から映えた雄牛のような角が、青年の体が異形の姿へと変化したことを如実に物語っていた。
「……なるほど。戦場で見たあの化物たちは、そういうカラクリだったのか」
一瞬にして認識を改めたアスラルは、足元に転がっているブラシを器用に蹴り上げると、そのまま空中で掴み、化物の姿に……人間の知識でいうところの、オーガと呼ばれる異形の姿となった青年に向かって構えた。
それが合図だった。
先ほどからアスラルにぶつけられていた侮辱の言葉も、相手を射竦めるような咆哮も無い。ただ純粋に、目の前の敵を粉砕するだけの無骨な豪腕が、何の前触れも無く繰り出された。
それを回避し、伸びきった腕の関節めがけてブラシの横薙ぎを繰り出した瞬間、アスラルは自身の持っている得物が〝木製のブラシ〟であることを思い知ることになった。
見誤ったわけではない。侮ったわけでもない。
だが、どんな相手であっても関節は明確な弱点である、と。
頑強な騎士の鎧であっても、関節を突かれれば脆いのだという先入観が。
「効くか、豚ァッ!」
オーガの肉体が持つ強靭さと、掃除用でしかないブラシの強度とを、錯覚させてしまった。
鋼のような肉体に、
先ほど彼らを苦も無く
中ほどからぽっきりと折れたブラシの柄に気を取られたわけではない。
だが、確かにアスラルの意識は一瞬……ほんの一瞬だが真っ白になってしまい、その一瞬はオーガの青年にとって必殺の一撃を繰り出すのには十分すぎる時間だった。
繰り出された反対側の腕は、アスラルの顔面を捉える線上に乗っていた。
あんな腕の一撃をまともに受けたら、たとえ鉄兜を装備していても無意味だろう。
ましてや、今の無防備同然の頭では、一撃で致命傷になることなど想像に難くない。
それは、つまり……。
まずい。
そう。まずい、とアスラルが自覚したときには、もう手遅れだった。
ギリギリのところで体を捻って青年の一撃を回避したアスラルの体は、生き残るための最善の行動を、無意識のうちに取ってしまったのだ。
すなわち、攻撃を回避したら、次の一撃を食らわぬよう、
回避した動きを利用して、
今の自分にできる可能な限り最高の一撃を、
「避けろぉッ!!」
容赦なく、叩きこむ。
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