第25話 騎士の一分
その言葉を、アスラルの頭は即座に理解できなかった。
いいや、違う。
理解できないのは、言葉ではない。
「これに伴い、女王付きの愛玩動物役を解任。これよりルーセシア近衛兵団の一員として女王と共に戦場に立ち、その御身をお守りするべく粉骨砕身することを命ずる」
この状況そのものだ。
一体今、この場で何が起きているのか。
目の前の男は、誰に何を言っているのか。
「なお、俸禄は……」
「ちょ、ちょっと……ちょっと待ってくれ! な、何? 一体、何の話をして……」
実に事務的に、澱み無く告げられる言葉は、アスラルの頭に混乱の嵐を巻き起こす。
「…………っぷ」
その嵐の中、小さく空気が抜けるような音がした。
「っぷっははははははっ! それじゃそれじゃ、その顔じゃ! その顔が見たかったんじゃ! っはっはっはっはっは!」
その音はすぐに実体を伴ってアスラルの前に現れた。
先ほどまでの仏頂面はどこへやら。
そこにいたのは歳相応の……もしかしたら幼い外見がさらに幼く見えてしまうかのような、大口を開けてケラケラと笑うパナヴィアであった。
「はっはっはっは……はぁあ、
「全くでございますな。女王陛下のお戯れは、いささか度が過ぎておいでだ。この程度のこと、書面ひとつでようございましょうに」
「しかし、収穫が無かったわけではありますまい。確かに陛下の仰られるように、二心を抱けるような者ではないことは、よく分かりました」
「品位や教養も、まあそれなりといったところですな。ですが、確かにこれからの伸びしろは感じましたぞ」
「であろう? よう分かったであろう?」
パナヴィアの言葉に、周囲の重臣たちも相槌をうつ。どうやら彼らは、これがパナヴィアの〝戯れ〟だと、はじめから分かって付き合っていたようだ。
「済まぬな。メリカールの奴隷を迎え入れる懸念も分からぬでもないが、なれば一度きちんと話を聞けば納得するのではないかと思うてな。……いや、それすらも妾の戯れか。夕食前に足労をかけたな。では、これにて閉会、解散とする」
そう言ってパナヴィアがぱちん、と手を鳴らしたのにあわせて、8名の臣下たちは気だるげに立ち上がり、部屋を後にしていった。
その中、アスラルの隣を通り過ぎるときに、ある者は値踏みするような顔を、ある者は茶化すような笑みをアスラルに向けてゆく。
それに一体どういう意味があるのか、アスラルにはさっぱり分からなかった。
「いつまで突っ立っておるか。ほれ、もう用は済んだゆえ、部屋に戻るぞ」
声を掛けられて、また自分が呆けていたことに気付いた。
「……どういうつもりだ?」
殆ど無意識に、そう口にする。
「どう、とは?」
「俺をからかっているのか? それとも、遠回しな皮肉か? ……ひょっとして、公式に裁判にかけるための手順か? 馬鹿な犬を叱るより、国民にして法的に裁くつもりなのか? そうすれば不敬罪で禁固刑にでもできるか?」
「……そちは何を言っておるのじゃ?」
「何って……」
訝しげなパナヴィアの顔を見て、アスラルは思わず後ずさりそうになったが、その表情に作為の色は見えない。
それどころか、本当に「いきなり何を言い出すのか」といったふうな顔だ。
「……怒って、ないのか?」
「怒る? 誰を? そちをか?」
「ああ」
それでも警戒を解くことなく、アスラルはゆっくりと首を上下に動かす。
「はてさて、そちは妾に怒られるようなことをした記憶があると? 妾にはとんと記憶に無いが? むしろ妾は感心しておるくらいじゃ」
「……感心、だって?」
「うむ」
満足気に頷くと、パナヴィアは席を立ちアスラルへと歩み寄る。そしてアスラルの顔を下から覗き込むように見つめた。
「先の弁、見事であったぞ。一国の女王と首脳陣を相手に、ようあそこまで堂々と言えたものじゃ。内容そのものは穴が無かったわけではないが、十分に及第点をくれてやってもよいと思う。よう勉強しておったようじゃな」
「勉強って……な、何のことだ? 俺は別に……」
「隠さんでもよい。ここ暫く妾に隠れて何やらコソコソとしておったのは、そういうことだったのじゃろう?」
「な……っ?」
一瞬、一体こいつは何を言っているんだと思ったが、どうにか表情には出さずに済んだ。
代わりに、彼女の神経を疑ってしまいそうになる。
あれだけ怒鳴り散らされ、おまけに泣かされたというのに、まるで怒っていないというのだろうか。だとしたら、一体自分は、今日まで何に怯えてきたというのか。
「……それが、女王の度量とでもいうのか?」
「はあ?」
「主人の手を噛んで、しかもそれを反省することなく今度は偉そうに高所から見下ろすような犬を叱るどころか、よくぞそこまで自立したと褒めるっていうのか? どうして怒らない? どうしてそう平然としてるんだ!?
俺はお前を馬鹿呼ばわりしたんだぞ? 程度の低い悪口で、お前を口汚く罵ったんだぞ!? なら、それに対する罰があって然るべきじゃないのか!?
なのにお咎め無しで、しかもルーセシア国民にするだって!? なんの冗談だって訊いてるんだ!」
捲くし立てるようなアスラルの言葉に、パナヴィアは驚いたように目を見開く。
それは怒鳴られたことよりも、言葉の内容そのものが意外だった、といったふうだ。
「これは異なことを。そちが? 罵る? 妾を? できるわけがあるまい」
「で……ッ!? できるできないじゃなくて、しただろう!」
「いつ?」
「あのとき! お前の実家って言ってた孤児院でだ! 俺はお前を否定した! お前の考えをバカだと、愚かだと罵っただろう! それで……」
ぐっ、と一瞬詰まりそうになったが、アスラルはそのまま一気に腹の底から、
「それで、お前は泣いていたじゃないか!」
押し出すように、そう叫んだ。
瞬間、パナヴィアの双眸が驚愕に見開かれた。
それだけではなく、その白磁のような頬に、一瞬にして薄紅を塗ったかのような赤みが差した。
「…………見えて、おったのか?」
僅かな沈黙の後、様子を伺うような調子でパナヴィアはそう尋ねてきた。
「み、見たわけじゃ無い。ただ、あの子たちが言ってたじゃないか。ナヴィ姉ちゃんを泣かせた、って」
「……ああ。そういえばそうじゃったか」
しまったなぁといったふうに頭を掻くパナヴィアの姿に、アスラルは思わず毒気を抜かれてしまう。
「爺様に……先代のルーセシア王に叱られたときを思い出してしまってな。それでつい……その……驚いたやら懐かしかったやらで、ボロッときてしもうた」
「な、なつか……?」
「うむ。女王に即位してからというもの、あれほど真正面から叱られた覚えが無かったものでな。
それにしても……やれやれ、そうか。ようやくそちの言動に合点がいった」
はぁ、と大袈裟に溜息を吐いて、パナヴィアは再びアスラルを睨むように見つめる。
「つまり妾は、そちに怒鳴られたことで泣いてしもうた、と。そしてそちは、妾を泣かせてしもうたことが気まずくて、ここ暫くずっと妾を避けておった、と。そして今日呼び出されてさぁ叱られると思って身構えて来てみれば、お咎め無し。しかも破格の報酬を受け取って、逆に何か裏があるのではと疑ってしまった、と」
懇切丁寧な解説に、アスラルは逆に気恥ずかしくなってしまう。そう改まって言われると、なんだか自分がものすごく臆病者であるかのように感じてしまったからだ。
恥ずかしさに無言で応えるアスラルの態度を見て、パナヴィアはもう一度「はぁ」と溜息を零した。
「……そういう風に驚かせたかったわけではなかったんじゃがなぁ」
ぽつり、と。パナヴィアの口から零れ落ちた小さな言葉は、アスラルの耳に届く前に空気に溶けて消えた。
「ん? なんだって?」
「なんでもない。そちはやっぱり阿呆じゃと言うたんじゃ」
苦笑のようにも、小馬鹿にしたようなものにも見える笑いを浮かべて、パナヴィアはアスラルの胸の辺りを指差した。
「そちはもう忘れたのか? なにゆえにそちが生きているのか、その理由を忘れたというのか?」
「なにゆえって……お前に、生かされているんだろう? それが何の……」
「それだけか? それ以外にも条件があったであろう?」
「……つまり何が言いたいんだ?」
要領を得ない問答にアスラルは溜息混じりにそう聞き返すと、その10倍は盛大な音を立ててパナヴィアは呆れの溜息を吐いた。
「ほんっっに、そちは阿呆じゃの。自分の命に関わることなのに、まともに覚えておらんと見える。……まあ、じゃからこそ、なのかの」
アスラルを差していた指を自分に向け、自らの胸をトンと叩いてみせた。
「そちが妾に危害を加えることができぬという条件すら忘れたか?」
「ああ……それか」
「それかって……重大なことじゃと思うんじゃがな」
「そうかもしれないが、俺にとっては余り重大なことでもなかったんで、忘れていた」
「自らの命に関わる問題が重大ではないと?」
「そうじゃない。ただ、俺がお前に危害を加えるなんて、まずあり得ないと思っていたって話だ」
さも当然とばかりにそう答えるアスラルに、パナヴィアは再び呆気に取られたように目を見開いた。
「……ふぅ、やれやれ、阿呆もここまでくると国宝級かのう?」
「そういう自分だけが分かってるようなふうに言われるのは、あまり愉快じゃないんだけどな?」
「こんな簡単なことにすら考えが回らぬそちを阿呆じゃと言うて何が悪い? まあ、妾とて筋金入りの阿呆をからかって遊ぶほど悪趣味ではないゆえ、説明してやらんでもない」
どの口がそんなことを言うのかと、内心で盛大な溜息をアスラルが零したのと、
「そちの言う危害とは、暴力に対してのみ適応される言葉なのかと問うておるのじゃ」
意地悪そうな笑みを浮かべてパナヴィアの口がそう動いたのが、ほぼ同時だった。
どきり、と。
アスラルの心臓が高鳴った。
それはパナヴィアの言葉に対する驚きなのか、それともそれ以外の何かなのかは、アスラルには分からなかった。
確かなことは、物理的な暴力だけではなく、暴言や悪口、もしかしたら敵意や害意さえも、パナヴィアに掛けられた呪縛の対象になるのだということ。
そして。
「……俺は、てっきりそうだとばかり思っていたんだが、違うのか」
パナヴィアを傷つけ、悲しませたとばかり思っていた自らの暴言に、彼女に対する敵意も害意も、混じっていなかったのだということ。
そのことに気付いたアスラルだったが、あえて惚けたような態度で応じる。
そうだ、そんなこと、あるはずがない。
パナヴィアが何を言ったのか、忘れるはずもない。
虐げられた者を守るためというお題目を掲げるということは、即ちそれそのものが、自らが守りたいと願った者たちを『虐げられた者である』と肯定しているのと同じことだと。
それは、騎士の誓いにある『弱き者の剣とならん』という文句は、裏を返せば守るべき者たちを、そして何よりリースを、弱者であると見下しているのと同じなのだ……と。
言葉遊びだと言ってはいたが、そう解釈できてしまうその言葉に、何の敵意も害意も抱かないなんて、あるはずがない。
……いいや、ただひとつ。
ただひとつ可能性があるとすれば、それは。
(諫言……だったとでもいうのか? あれが?)
未熟な主君に対して、臣下が敢えて苦言を呈する。
主の悩みや迷いを受け、共に苦悩するのではなく叱咤激励し、王としての道を説く。
そんな思いがあのときのアスラルの中にすでにあったとするならば、確かにそれはパナヴィアを〝害する〟ものではなくなる。
だが、それはつまり。
パナヴィアを、自らが仕えるべき、主君であると。
(認めているということなのか? 俺が? 俺自身が?)
「まったく、やはりそちは阿呆じゃな。犬であっても、何をすれば誉められ、何をすれば痛い目に遭うかくらい、一度味わえば学習するものじゃろうに」
そんなアスラルの困惑に気付いているのかいないのか、パナヴィアは大袈裟に肩を竦めてみせた。
「まあ、その阿呆さ加減も、またそちの愛いところではあるのじゃがの」
「……冗談もそのくらいにしろ。いくらペットでも、余りバカにされると飼い主に反抗のひとつもするぞ」
「ふっ、そちは律儀じゃなあ? じゃから、もうペットは卒業じゃと……」
「俺はお前の愛玩動物で、お前は俺の飼い主。それ以外の何物でもない」
す……と。
いつもの気安さで伸ばされたパナヴィアの手。
その動きに合わせるようにして、アスラルは一歩身を引いた。
胸の前で虚しく空を切った小さな手と、何が起きたのかと言わんばかりのポカンとしたパナヴィアの表情に、僅かに胸が痛くなる。
「そこまで俺を買ってくれていることには感謝している。だが、奴隷の身に近衛なんて分不相応も程がある。俺は今までどおり、お前の愛玩動物役で十分だ」
できるだけ静かに。
抑揚を抑えた、感情を感じさせない声で、アスラルは淡々とそう告げた。
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