第24話 騎士と女王の対面
夕方に差し掛かり、そろそろ夜中の鍛錬に向けて体を休めておこうとしたところに、部屋を訪れる者がいた。
ルミエールである。
パナヴィアと一緒にいるときは終始冷静沈着を貫いている男だが、アスラルのほうを見るときはいつも眉に皺を寄せる。
今日はその皺が、さらに深いように見えた。
「……アンタが呼びに来るなんて、珍しいこともあるもんだな」
「下らん問答は無用だ。お前は黙って、言われたとおりにすればいい」
相変わらず犬猫でも呼びつけるかのようだ。
いいや、犬猫ならばあそこまで忌々しげに睨まれることも無いだろうから、そういう意味ではまだ人間扱いされているのだろうか。
嬉しくは無いが。
「分かった、すぐに行く」
はあ、と溜息を零して、アスラルは気だるげに立ち上がった。
来るべきものが来たか、という心境だった。
できれば時間が解決してくれるまで関わりたくは無かったのだが、そうも言っていられないらしい。
だが、こうなってしまったからには覚悟を決めるほかない。
散々考えた謝罪の言葉は、どれも言えそうになかった。
けれど、言わなければこのままズルズルと気まずい時間を過ごすだけだ。
一時の不名誉に耐えてでも、ここは自分が折れるべきなのだろう。パナヴィアの不興を買って、せっかく繋ぎとめた命を破棄されたらかなわない。
……けれど、もしそうするつもりなら、もっと早くにしているのではないだろうか。
飼い主の手を噛むような犬を傍に置いておくような酔狂をするだろうか。
どうして今まで、自分を放置していたのか……。
「入れ」
ルミエールの声に、アスラルは我に返った。
また答えの出ない自問を繰り返していたようだ。
そうだ。まずはパナヴィアの真意を知らなければ、何ともしようがない。自分から聞くのは躊躇いが勝ってしまっていたが、こうして呼びつけられたのでは逃げようも無い。命乞いなら、最後の最後でも遅くは無いだろう。
腹の中から余計なものを捨てるつもりで小さく息を吐き、やはりどこか憎々しげな顔のルミエールを横目に見ながらアスラルは見覚えのある扉をくぐった。
くぐってから、思わず反射的に背筋が伸びた。
余計な装飾品の置いていない、ともすれば殺風景にも見えるその部屋に置かれた、大きなテーブル。一本の
名前は知らない。それでも、彼らがこのルーセシアの国政を支える重臣たちであることくらいは分かった。
それは恐らく……
「遅いぞ、馬鹿者」
そこに集った8名の……アスラルも入れて9名の男性を一度に見渡せる位置に腕を組んで腰掛け、不機嫌そうな顔でこちらを見るパナヴィアの姿があったおかげかもしれない。
その姿はいつものパナヴィアと何ら変わりない。
だというのに、こうして背中に鉄の棒でも差し込まれたかのように感じてしまうのは、彼女が〝女王〟としてアスラルと相対しているからだろうか。
「……お待たせいたしまして、申し訳ございません」
だからアスラルもまた、体に沁み込んだ騎士としての性分が動いた。
パナヴィアへの謝罪とか、彼女と差し向かいで立つことへの居心地の悪さとか、今までずっと腹の底に渦巻いていた未処理の念が全て追い出されてゆく。
「うむ。以後気をつけると約束するなら、此度の遅参は許そう」
言葉面は穏やかだが、表情は相変わらず不機嫌そうなまま、パナヴィアは事も無げにそういってのける。
果たして〝以後〟なんて存在するのだろうかと、アスラルは心中で深く溜息を零した。
「さて、今日呼び出した件じゃが……その前に何ぞ、そちから言いたいことはあるかえ? もしあるなら先に聞いておいてやるが、どうじゃ?」
びくり、と。アスラルは下腹部の辺りが縮こまるのを感じた。
来た。
来るだろうことは覚悟していたが、こんな形で、しかも出会い頭早々に来るとは予想外だった。
まさか重臣が一堂に会する中、問答無用で謝らせるとは。さすがは女王ともなると、飼い犬への躾も規格外だ。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
「うむ、申せ」
もはや躊躇っていられるような状況ではなかった。
何もありません、と応じれば、後はもう相手の意思に従うほか無くなる。
かといって、自らの主張を押し通せば、不敬罪と切って捨てられるのが関の山だ。何せ相手は〝女王〟としてこの場に臨んでいるのだから。
「……先の一件は、いささか礼を失しておりました。我を忘れての暴言の数々、いかに償えばよいのか分かりません」
ならば自分はいかにして臨むべきか。
パナヴィアの飼い犬としてか。
それとも敵に拾われた憐れな奴隷としてか。
あるいは……。
「ですのでこの場をお借りし、あのときの粗雑な言葉の訂正をさせて頂きたく存じます」
エストリア近衛騎士、アスラル=レイフォードとしてか。
「……許す。述べよ」
「有り難き幸せ」
不機嫌そうな仏頂面をピクリとも動かさずに言うパナヴィアに会釈を返してから、アスラルは背筋を伸ばし、真っ直ぐにパナヴィアを見つめた。
「女王陛下、貴女はとてもお優しい方です。心からこの国の子供たちを愛しておられることは言うに及ばず、敵であったはずの自分に情けを掛けてくださった。
そして何より、貴女を殺そうとしていた多くの敵にもまた、情けを掛けておられる」
左右に陣取る8名の重臣たちへ軽く視線を送って、アスラルは再びパナヴィアへと向き直る。
「先の国境での一戦、実にお見事でした。敵総大将を狙った一点突破による短期決戦は一見無謀ではありますが、その実双方の被害を最小に抑えるための情け深い戦術に他なりません。敵大将を討ち取ることで、他の兵たちを一人でも多く生かして国へ帰そうというそのお心は、大変慈悲深い。
だからこそ申し上げるのです。迷ってはなりません」
ごくり、と唾を飲み込む。
こうして立っていることさえも恐ろしく思える。なにせ今の自分は、衆人観衆のもと、一国の女王に対して堂々と説教を垂れているのだから。
自分は遊説家などではないし、主君に対して訓示をのたまえるほどの勉学を積んできたわけでもない。むしろ口先の技に関しては、子供一人まともに捌けないくらいに不自由であることくらい自覚している。
しかし、だからこそ止まらなかった。
自分の言が正しいのか間違っているのかさえまともに判断できない、乏しい理解力しか持ち合わせていなかったからこそ。
仮に自身の発言のなかに矛盾が山のようにあったとしても、それを矛盾だと感じることのできない貧相な頭しか持っていないからこそ、アスラルの舌は次から次に言葉を紡いでいった。
「陛下が慈悲深いのは、傷付いた者だからこそ。国を追われ、飢えに苦しみ、孤独に苛まれた者ゆえ、相手の痛みが分かってしまう。それはとてもご立派です。
しかしそれが迷いになってはなりません。相手の痛みを感じてしまうゆえに誰かを傷付けることを躊躇ってしまえば、それはもはや慈悲にはなりません。ただの弱さです。
そして敵は……メリカール王子カリウスは、その弱さに付け込むことに何の躊躇いも抱かぬ卑劣漢。自らは泥に塗れることなく敵を下し、踏み躙り、完膚なきまでに叩き伏せることに一片の罪悪感すら抱かぬ男です」
脳裏に、かつての光景が思い浮かぶ。
自分の頭を踏みつけ、勝ち誇ったような……いいや、そんな感情すら無い。
そうするのが当然のことだと言わんばかりに、無邪気に微笑んでいたあの憎い顔が思い出される。
「そのような者を相手に戦っているというのに、国の主が迷いを持ってはいけません。傷付いた者であってはならないのです。
相手はその傷に塩どころか、毒を塗り込むことを常道だと思っているような輩です。そのような相手に慈悲は無用……
いいえ、慈悲というなら、そんな男を未来の王として抱かねばならぬメリカール国民にこそかけてやるべきではないのでしょうか。
愚かな王が国を治めれば、必ずや荒廃を招きましょう。それだけではありません。虐げられた者たちはその不満や鬱憤を、より弱き者へとぶつけます。
無理矢理戦地へ駆り出された男たちは、その恐怖を癒すべく占領国の女を辱めるでしょう。子供を攫い、奴隷商人へ売り、財を得ることでしょう。
そのような国を作らせてはなりません。
そのような非道な真似をよしとするような民を増やしてはなりません。
そのような親を見て育つ子を増やしてはなりません。
そのために戦うのです。決して虐げられた腹いせなどではありません。
そのような感情など、それこそ弱さが招く迷いです。同じ人として、今を苦しむ人、これからの未来に苦しみを背負わされる人を、一人でも多く救いたいと願うのは当然のこと。
そしてその方法が戦うこと以外に無いというのならば、平和の旗を掲げて戦うことに何の過ちがありましょう。
あの子供たちが、何の負い目も憂いも無く、他の全ての子供たちと手を取り合うことのできる国を造るために掲げる旗は、平和以外の何がありましょう。
けれど、その旗を掲げる貴女が傷付き迷える者であっては、その平和もまた傷付き、迷い、すぐに乱れてしまいます。そんな未来をあの子たちに……いいえ、あの子たちだけではなく、全ての者たちに与えてはならないと思ったからこそ、あの場は敢えて苦言を呈した次第です。
その際、若輩ゆえに感情に流され暴言を吐いたことは深くお詫びいたします。そしてそれを訂正する機会を頂けたことを、感謝申し上げます」
再び背筋を伸ばし、アスラルは深々と礼をした。
そして思うのだ。
一体どの口がこんな偉そうなことを言うのだろう、と。
祖国エストリアを滅ぼされ、その民が反乱を起こせぬよう王女リスティーナを人質に取られている。
しかもただの人質ではなく、愛妾として……卑しい雄の欲求の捌け口として飼われているのだと思うだけで、腸が煮えくり返る思いだ。
虐げられた者の恨みを百倍にも千倍にもして、カリウスを八つ裂きにしてやりたいと願ったことは両手両足の指では足りない。
その自分が慈悲を説くなど、お門違いもいいところではないか。
「……言いたいことは、それで全部か?」
そんなアスラルに、冷ややかな声が浴びせられる。
「は……っ。以上であります」
顔を上げるのが恐ろしい。一体パナヴィアはどんな顔をしているのか、見るのが怖い。
眉ひとつ動かさず、相変わらずの不機嫌そうな顔だろうか。それとも手を噛み、さらに喉笛にまで噛み付こうとしてくる駄犬に対して怒りを顕わにしているだろうか。
しかしそれでも、無条件にただただ謝罪することはできなかった。
どうせ死ぬなら、パナヴィアの犬でも、メリカールの奴隷でもなく、エストリアの騎士として死にたかった。
そこまで考えて、ふとアスラルの脳裏に疑問が過ぎった。
……どうせ、死ぬなら?
待て。死んでは困るではないか。リースを助けるまで、決して死ねないと心に決めていたではないか。なのに、どうしてこんなことを言ったのだろう。
生きることを願うなら、体面などどうでもいいではないか。
パナヴィアの犬として生かされている我が身をよしとするなら、どうしてわざわざ自分から死地へ向かうような真似をしたのか。
――どうして、俺は……。
「では、沙汰を伝える」
疑問の声は、ピンと張り詰めた声によって封じ込められる。
弾かれたように顔を上げると、アスラルから見て右手側……パナヴィアのすぐ左側に腰掛けていた壮年の男が、筒状に丸められた羊皮紙を手に立ち上がるのが見えた。
男は自分の顔の前に羊皮紙を開き、軽く咳払いをしてから、
「クロス=クレイモア。今日よりこの者をルーセシア国民として認め、この国に住まう権利を与えるものとする」
……そう、告げたのだった。
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