第43話 奇跡の乙女1
戦場の喧騒を足元に聞きながら、パナヴィアは一人そこを訪れた。
これは正しい行いではないのかもしれない、と思った。
未だ階下からは戦いの声が聞こえてくる。本来ならば自分はその中にあって、一人でも多くの兵を救うべく先陣を切って戦うべきなのかもしれない。
けれど、パナヴィアはここへ来た。
すでに制圧され、いたるところにメリカール兵の死体が転がる、城壁の上へと。
そんな中にあっても、その姿を見つけるのは容易かった。
遠目にも十分すぎるほどに輝いて見えた純白のドレスは、血と泥に塗れた戦場の中では一際目立つ。
間違いない。
彼女こそあのとき見た少女……アスラルが「リース」と呼んだ、彼の祖国エストリアの王女、リスティーナ=エスリーゼであった。
ゆっくりとした足取りで歩み寄ったパナヴィアは、リースの傍らに屈みこむ。
肩口から胸元を通って走る傷跡は、ドレスの白さゆえに凄惨なものに見えた。
しかし、そっと手を当ててみると微かだがまだ『命』の反応があるのが分かった。恐らくカリウスの剣の腕が悪かったのだろう、即死には至らなかったようだ。
(なぜ、妾はこのようなことをしておるのじゃろうな……?)
そんな自問が脳裏に過ぎる。
今日までクロスが……アスラルがずっと苦しんできたそもそもの原因は、彼が仕える王族であるリースが生きていたせいだ。
もし国が滅んだときにリースもまた死んでいれば、アスラルはここまで苦しみ、思い悩むことも無かっただろうに。
いっそこのまま彼女を殺してしまえば、アスラルは自由の身になってくれるだろうか。
そうなればもう、アスラルを縛るものは何一つとして無くなるのだろうか。
――祖国を失い、仕えるべき王を亡くし、守るべき民も無いとなれば。
――もしかしたら、ようやく、アスラルは……。
(阿呆が。妾は何を考えておるのじゃ)
自嘲と共に、軽く頭を振って迷いを追い払う。
そうだ。そんなことあるはずがない。
あるはずがないからこそ、あれほど頑なにアスラルはエストリアの騎士で在り続けたのだから。
むしろ以前パナヴィア自身が言ったように、それこそ何の躊躇いも無く追い腹切って忠義に殉じるくらい、平気でするかもしれない。
いいや、その可能性のほうが遥かに高いではないだろうか。
……そう。
そんなアスラルだからこそ、パナヴィアは……。
(……阿呆が、集中せいパナヴィア。決めたんじゃろう、天の采配に委ねるのは、今このときまでじゃと)
もう一度ぶんぶんと頭を振って、パナヴィアは目の前の事態に集中する。
こうしている僅かなあいだに手遅れになってしまっては、何のためにここへ来たのか分からなくなる。
実を言うとここに来るときまでは、どちらでも構わないと思っていた。
その判断は、まさしく天に任せたのだ。
もし死んでいたなら、その事実を受け入れる。
それがきっと、この少女の運命だった……と。
けれど、もし生きていたのなら。
無理矢理にでも、どのようなことをしてでも。
――『
小さく深呼吸して気持ちを切り替えると、パナヴィアはリースの胸に手を当てて目を閉じ、ゆっくりと自分の『命』を感じ取る。
初めて感じたときは、水筒の中の水だった。けれど時が経つにつれ、そのイメージは〝より具体的かつ抽象的〟になっていった。
自らの『肉体』という器の中にある、『魂』という核。
その器を満たし、核を包み込む、『命』という羊水。
自らの内を循環している、『生命』という流れ。
その流れをゆっくりと変えてゆく。
肩から腕を通り、指先を伝って相手に流れ込んでゆくイメージ。
それがリースのからっぽになりかけた『肉体』を満たし、再び『魂』を包み込んでゆくイメージを……
「ッ!?」
感じようとした、瞬間。
パナヴィアは驚愕に目を見開いた。
(バカな……ッ!? い、いや、そんなはずは……)
思わず声に出そうになったのをギリギリで押し留め、パナヴィアは再び意識を集中させる。
自らの内へと潜り、『命』を感じ、それが相手に流れてゆくイメージを。
だが、そこで再び、同じ感覚がパナヴィアを襲った。
――こぼれて、ゆく。
リースに注ぎ込んだ命が、どんどん零れてゆくのだ。
それはまるで、穴の開いたグラスに水を注いでいるかのようだった。
注いでも注いでも、まったく満ちてゆく感覚が無い。
(まさか……ッ!?)
パナヴィアは愕然とした。
もはやリースには、生きようとする意志が、無いのだ。
そんなことはありえない。しかし、そうでなければ説明がつかない。
パナヴィアの力が効果を発揮するのは、生きようともがく者に対してのみ。生きることを諦めた者に対しては、何もできないのだ。
いや、違う。諦めたのではない。
「阿呆が……阿呆が! やりきったつもりか!? あの程度で使命を果たしたとでも言うつもりか! 自惚れるでないわ!」
死を、受け入れてしまっている。
カリウスの愛妾となってでもリースが生きようとしたのは、自分が生きていることでエストリアの民が不幸にならないと信じていたから。
けれどそれは間違いだと気付いてしまった。
もうひとつの望みであるアスラルとの再会は、たったひと時であれど果たせた。
どんな苦しみの中でも騎士であり続けてくれたアスラルに対して、自分もまた女王として応えることで、彼との約束を守った。
もはや、思い残すことなど何も無い。
そんな想いが、掠めてゆく彼女の『魂』から伝わってくるかのようだった。
「ええい、くそッ! 阿呆め、阿呆め! お嬢様風情が一人前に!」
思わず、いつもアスラルに向けるような罵声が口を吐いてしまう。
普段のパナヴィアであれば、彼女の意志を大いに賞賛していたかもしれない。
自らの身命を賭して祖国を守るルーセシア兵と同じ、誇りと気概がある、と。
兵のひとりひとりを大切に思っているパナヴィアが、戦死したルーセシア兵にこの力を使えない理由が、まさにそれだった。
ルーセシアは流民の国。
姿が違う、異能である、そんな理由で国を追われた者たちを、ルーセシアは分け隔てなく受け入れた。
そんな国を……第二の故郷を守らんと戦場へ出ることを選ぶ者たちは、多かれ少なかれ同じ思いを持っているのだ。
自分たちを受け入れてくれた場所へ、自らの命を以って恩を返すのだ……と。
戦場に出ると決めたときから死を覚悟している兵たちに、パナヴィアの力は大きな効果を発揮しない。
死をも恐れぬルーセシア兵の風評は、誇張でもなんでもない。
その覚悟ゆえの精強さであり、一騎当千の猛者たりえるのだ。
(それと同じ思いを、この者も持っておるというのか……ッ!?)
自分の騎士であり続けてくれたアスラルのために、自らの命を以って応えたというのだろうか。
(馬鹿な! そんなことなら、なぜもっと早くに死なんかった! なぜもっと早く……ようやっと助かるというときになって、なぜ……ッ!?)
そう叫びたい思いを必死に堪え、パナヴィアはもう一度……無駄なことだと頭では分かっていながらも、一縷の望みにかけて
欠片でもいい。
彼女の中に僅かでも生に対する執着があれば、それを利用していくらでも力を使うことができる。
けれど、それが無ければパナヴィアの力では……それこそ、パナヴィアの『命』すべてを注いでも、すべて無駄になってしまう。
「この期に及んでそのような潔さなぞ要らぬ! そちが死んでは何のために……何のために、クロスは……っ! アスラルはっ!」
アスラル。
その言葉に反応したのかどうか、定かではない。
けれど、そのとき。
「…………ぅ、ぁ……」
パナヴィアの耳に、微かな声が聞こえた。
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