第3話 双剛刃《クロスクレイモア》と呼ばれた男2
ぴちょん、と冷たいものが鼻先を打つ感触に、アスラルは目を覚ました。
重たい瞼をゆっくりと上げ、ぼんやりと霞のかかった頭を丁寧に醒ましてゆく。
「ぅぷ……ッ!?」
直後、腹の底から込み上げてくる不快感に、思わずえづいた。
人間は幸せなことはすぐに忘れ、苦しいことばかりを覚えてしまうもの……という俗説を、まさかこれほどまで鮮明に体験することになるとは思ってもみなかった。
あの忌々しい面を夢でまで思い出すとは、実に不愉快極まりない。
だが同時に、それがただの夢であってくれたことを少しだけ感謝した。
「……どこだ、ここ」
そして夢を見ていたということは、自分は眠っていたということだろう。
冷たく、硬い石のベッドの感触で、自分が床に転がされているのは理解した。のっそりと立ち上がり、慎重に声を出してみる。
目を開けたはずなのに、未だ目を閉じているのではないかと錯覚するほどの闇の中。それでもそこは〝どこかの中〟であり、わりと近くに壁があるのだということは、声の反響具合で理解できた。
「生きているのか、俺は……?」
闇の中、白くぼんやりと浮かんだ自らの手。握っては開きを何度か繰り返しても、おかしなところは感じない。
だとすると、おかしい。
なぜ自分がここにいるのかは全く把握できないが、少なくとも自分が目を覚ます前まで何をしていたかくらいは思い出せる。
いつ終わるとも知れぬ戦いの中、ただ生き延びるためにひたすら剣を振り続けた。
そしてその最後を飾った、幼くも凛々しい少女の、流麗な
その舞いが貫いたものは、確かに。
「俺の身体、だったはずだ……」
そっ……と、冷たい槍の穂先が突き刺さったはずの右肩の付け根へと手を伸ばす。
瞬間、アスラルは自らの境遇を悟った。
「もしかして、ここが地獄ってところなのか……」
傷が無いのだ、きれいさっぱり。
暗くてよく見えないが、その手に返ってきた感触は、普通の人間の皮膚となんら変わらないものだった。
おまけにあれだけ深く刺されたというのに、触れた部分に何の痛みも感じない。
それも全て、自分がすでに死んでいるのだと考えれば、なるほど合点がいく。
色々と可能性はある。
あの戦いが夢であった、とか。
実はもう何年も眠り続けていた、とか。
あるいは、誰かが助けてくれて、丁寧に看護してくれていた、とか。
「俺は……死んだ、のか……?」
けれど、自分はすでに死んでいて魂だけの存在になっているから、肉体の傷は無くなっているのだ……
という結論に合点がいってしまうのは、アスラルが生きとし生けるものすべての生命と誕生を司る神『エルカーサ』を信仰する敬虔な信徒の家に生まれたからだろうか。
「残念ながらまだ死んではおらぬぞ」
そんなアスラルの疑念を払拭したのは、キンと響く甲高い声だった。
その声に遅れて、遠くからコツコツと石畳を叩く音と、うっすらとした光が近づいてくるのが分かった。
やがて光はアスラルのすぐ傍までやってきて、目の前にある鉄格子を照らす。
そして、その向こうに。鉄格子を隔てた向こう側にいる、煌々と輝くような、鮮やかな朱を浮かび上がらせた。
炎よりも赤い、燃えるような長い髪をもった、少女の姿を。
「……誰だ?」
「いきなりご挨拶じゃな。それはまさしく妾のしたかった質問なのじゃが……まあよい」
むっとしたような表情もつかの間。フフンと鼻で笑って、少女は長い髪をかきあげる。
「妾はパナヴィア。ルーセシア女王、パナヴィア=ルーセシアじゃ。この名、この声、この姿、よもや忘れたとは言うまいな」
そして腰に手をあて胸を少し逸らすようにして、まさに「えっへん」とでも言いたげなふうに名乗ってみせた。
なるほど長い真紅の髪といい、大仰な名乗りといい、アスラルの記憶の中に転がっている少女と……流麗な戦舞を踊り、アスラルに致命的な一撃を与えた少女の姿と一致する。
唯一納得がいかないのは、まさかこんな子供が……と思うほどに小さな、彼女の姿形であった。
記憶の中にいるパナヴィアと名乗った少女は、おおよそ子供には扱いきれないような長槍を巧みに操る武芸者だった。
小柄であることも記憶にはあったが、まさか自分の胸元に届くか届かないかの背丈しかない少女だったとは。
こんな小さな子に自分は負けたのか……と、苦いものが胸を満たした。
「むっ、今そち、何やらとても無礼なことを考えたな?」
「……は?」
「なんじゃこのチビは、とか思ったじゃろう? 思ったじゃろうっ!?」
「…………は?」
思わず同じ言葉を、素っ頓狂に繰り返してしまう。
「ふんっ、まあよいわ。狭量な認識しか持たぬ矮小な者にどう思われようと、妾は痛くも痒くもないわ……若干腹は立つがな」
そんなアスラルを無視して、パナヴィアと名乗った少女はプン、と小さく頬を膨らませながら勝手に話を進めて、そして勝手に納得してしまった。
物言いこそ偉そうではあるが、態度はまるで子供だ。
態度だけではない。灯りに照らされて浮かび上がる、薄紅を塗った白磁のような頬の瑞々しさは手に取るように分かる。
整った目鼻立ちは涼しげだが、そこには隠し切れないあどけなさが滲み出ており、アスラルを見つめるその表情は、怒っているというより、むくれているという表現のほうが的確だ。
疲弊しきっていたとはいえ、異形のルーセシア兵たちを前に一歩も引くことのなかったアスラルを倒した相手が、こんな子供だったとは……にわかに信じられない。
これは何かの冗談なのか。それともまさか、自分はまだ夢の中にいるのだろうか。
「陛下、お戯れもほどほどに……」
そんなアスラルの疑問に応えたわけではないだろうが、不意にパナヴィアの後ろから声が掛かる。
見るとそこには、恐らく三十路前といったところだろうか、身なりの良い青年がランプを手に立っていた。
身長だけならアスラルとそう変わらないはずなのになぜか気付かなかったのは、彼の存在感が薄いせいか、それともその前に立つ少女の存在感……いや、態度の大きさに意識がいってしまっていたせいか。
「何を言うか、妾はいつも真剣じゃぞ」
「でしたら、お早いご裁断を。我々としても、いつまでもそのような物騒なものを転がしておくほどの余裕はございません」
「分かっておる。じゃが裁量は妾の匙加減ひとつなのじゃろう? なら、裁断を早くするか遅くするかもまた、妾の胸先三寸じゃな」
「それは、そう……ですが」
パナヴィアはアスラルのほうを向いたまま……つまり後ろの青年には背を向けたまま少しだけ首を動かして話をしているというのに、青年はまるで睨みつけられでもしているかのように畏まってしまっている。
「妾とてなるべく早いご裁断とやらを下すべくこんなところまで出向いておるのじゃ。それを戯れじゃと申すか」
「で、ですが私は、陛下の御身を思うからこそ……」
「じゃとしたらそちの目は節穴か? 妾がこのような半死人にどうにかされるわけがあるまい。それとも、なにか? まさかとは思うが、妾がこの者に手籠めにされるとでも心配しておるのか? ん?」
「滅相もない! そのようなこと、断じてございません」
「そうであろう? であるならばそちの役目は、妾の身を案じ、こんなところまで付いてくることではあるまい。妾が席を外しておるあいだ、戻った妾が少しでも楽に政務を進められるよう準備しておくことではないか?」
「し、しかし……」
「案ずるな。それに、もし万が一どうにかなったとして、そちの細腕一本あっても何の足しにもなるまい。入り口の衛兵でも呼んだほうがマシじゃ」
意地悪そうな笑みを浮かべてそう言うパナヴィアに、青年はグッと言葉に詰まる。
何か言いたいこともあるだろう顔をしていたが、それでもこれ以上パナヴィアに……主人に噛み付くのは得策ではないと思い至ったのか、青年はギロリ、とアスラルを威嚇するように睨み付けるとパナヴィアにランプを預け、立ち去っていったのだった。
彼の後姿を追って、アスラルはやっと自らの置かれた状況を把握する。
自分はまだ死んでいない。
そして目の前には、自分を殺した……厳密には致命傷を負わせた少女がいて、彼女のお付の青年は自分を異様に敵視している。
どうやら自分は、敵国ルーセシアの捕虜となったようだ。
「すまぬな、見苦しいところを見せたかの。ああでも言わぬとなかなか妾の傍を離れてくれんのじゃ」
不意に声を掛けられ、アスラルは無意識に半歩ほど退いた。そして、まずは自身の体の具合を認識する。
武器は無い。しかし手枷も足枷も無い。完全に自由に扱える自分の体がある。
そしてどういうわけか、傷も癒え、体力も本調子……とは言わないまでも、戦闘行動を取るには申し分ないほどに回復している。
半死人などと言われたが、とんでもない。今のアスラルには、いつでも戦える体が用意されているのだ。
「そう警戒するでない。そのように身構えられては、妾も居心地が悪いではないか」
さらに目の前にいるのは、自分をルーセシアの……敵国の女王だと名乗る少女が、ただ一人。
もし最初からいたのが彼女だけであれば、アスラルも目の前の少女を〝敵の総大将〟であるとは認識できなかっただろう。だが、先ほど彼女に付き従っていた青年とのやりとりが、アスラルに確信を与えてくれた。
「ほれ、もう妾と二人っきりじゃぞ? そちの名、
「……名?」
「うむ。妾の名は申したであろ? なのにそちはいつまで経っても名乗らぬゆえな。少々礼に欠けるのではないか?」
むぅ、といった具合に口を尖らせてみせるその仕草に、アスラルに対する警戒心は微塵も感じ取れなかった。
しかも何の冗談か、腰に下げていた鍵束を手にとってみせると、それを使ってアスラルのいる牢の中へと入ってきたではないか。
まさに、無防備そのものといった、余りにも無用心極まりないその態度。
「……一国の主が取る態度じゃないな」
「なんじゃと?」
「敵の前に一人でのこのこ来て、自分を守る者を下げるなんて、正気の沙汰とは思えないと言ったんだ」
「むぅう、妾はそちのお小言を聞く気は無いぞ? じゃから、早う名を名乗らぬか」
再び膨れっ面になり、その足は一歩前へと……
……自ら、アスラルの〝間合いの中〟に入り込んでくる。
「名乗る名前なんて、無い」
そう応えた、刹那。
アスラルの体は、殆ど反射的に動いていた。
先ほど半歩引いた足を、少女の一歩に合わせるようにして、前へ。
大の男が両手で扱うはずの
そして、それをそのまま無造作に、締め上げた。
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