第23話 夕闇のメイズ

 国境砦での防衛戦から、20日が経った。

 一度目は2万、次の本命で3万と、のべ5万人もの大軍を動かしたのだ。いくら大国とはいえ、さすがに3度も続けて数万の派兵などできないのだろう。

 久方ぶりに、ルーセシアには穏やかな日々が続いていた。


 けれど、その穏やかさと反比例するかのように、アスラルの心は冬の曇り空のごとく重々しい色に染まっていた。

 どうしてこんなにも憂鬱な気分になるのだろう。


 ……考えるまでも無い。

 パナヴィアに連れて行かれた、彼女の実家……孤児院での一件。


 ――そこで、パナヴィアを、泣かせてしまった。


 どうしてパナヴィアは泣いていたのか。

 理由を考えれば考えるほど分からなくなる。

 心当たりが無いのではない。心当たりがありすぎるのだ。

 パナヴィアの言葉を否定したことか。

 思い煩うパナヴィアを非難したことか。

 彼女自身言っていたではないか。所詮は言葉遊びなのだと。

 割り切ればよかったのだろうか。あるいは馬鹿馬鹿しい冗談だと笑い飛ばせばよかったのだろうか。

 それとも、最初から彼女の言葉の真意を問うなどという真似をしなければよかったのか。


 もしくはもっと単純に、彼女を怒鳴りつけてしまったことか。

 馬鹿な、と思う。

 いつもああやって高慢不遜に振舞っているパナヴィアが、怒鳴られたくらいで泣き出すはずがない。

 ……けれど、もしかしたら。

 あの傲慢な態度は、脆く傷つきやすい自分を守るための鎧なのだとしたら。

 本当はその外見のとおり、十四、五の少女らしい、華奢で繊細な心をしていたのだとしたら。

 もしそうだとするならば、あのような戯言にも等しい言葉遊びに思い煩い、迷い苦しむのも当然ではないだろうか。

 そして自分はそれを、何の考えも無しに非難したのだとしたら。

 自らの育った家に戻り、恐らく本当の家族のごとく愛しているのだろう子供たちに囲まれて〝高慢不遜な女王〟としての鎧を脱いだ、まさにそのときを狙って怒鳴りつけてしまったのだとしたら。

 女性を傷付けるなど、騎士としてあるまじき行為だ。

 本来ならばその場で跪き頭を垂れ、自らの非礼を詫び、誠心誠意謝罪の言葉を並べるべきだったはずだ。


 ……しかし。

 アスラルにはそれができなかった。

 騎士であるがゆえに、そうすることができなかった。

 自分はルーセシアに仕える騎士ではないし、恩も義理も無い。あるのは単なる、利害関係だけだ。

 パナヴィアも言っていたではないか。

 自分はペットだ。エストリア近衛騎士にして、リスティーナ王女を守る騎士であるアスラル=レイフォードは、ここルーセシアにおいては女王パナヴィア=ルーセシアの愛玩動物でしかないのだ。

 そして、面妖な魔術によって……生命を冒涜する力によって自分は生かされ、しかもその命はパナヴィアの生に連動しているのだという。


 だから自分は彼女に従っているだけに過ぎない。

 だから自分は、己の命を守るべく彼女と共に戦っただけに過ぎない。


 パナヴィアはアスラルの命を拾い、自身の愛玩動物とした。

 そしてアスラルには、何としても生き延びなければならない理由があった。

 だから彼女の横暴を受け入れ、忌むべき力によって生きることをよしとしている。

 全ては仕えるべき主のため。

 メリカールと戦い、リースを救うために生き続けなければならないのだ。

 だからこそ剣闘奴隷に身をやつし、今はこうしてパナヴィアのペットに甘んじているのだ。

 エストリアの、そして何よりリスティーナの騎士であり続けるために。


 しかし、パナヴィアはその誇りを踏み躙った。

 もちろん彼女にそんなつもりは無かっただろう。

 けれど、その言葉を……『迫害された者のために戦うという行為そのものが、あの子供たちを迫害された者であると蔑んでいることになる』という論法を受け入れてしまえば、『力無き者のために剣を取る』という騎士の本分そのものを侮辱することに等しい。

 なぜならそれは、守るべき民や仕えるべき主を『力無き者』と蔑んでいるということになるのだから。


 だから怒鳴った。

 だから叫んだ。


 自らの誇りを。

 祖国への忠誠を。

 リスティーナへの敬愛を。

 すべて踏み躙るような戯言を、ただの冗談と、子供の言葉遊びと聞き流すことなどできなかった。


 ゆえに、アスラルは騎士としての尊厳を守るためにパナヴィアを叱りつけただけであり、それは非礼でも何でも無いのだ。

 そもそも、自分を愛玩動物扱いするような相手に対して、一体どのような礼を払えというのか。


 ……そう、割り切ったつもりだった。

 割り切ろうとしたはずだった。

 しかしそれでもアスラルの心に掛かった重苦しい雲は晴れることは無く、むしろますます濃く、厚く立ち込めてゆくかのようだった。


 あの、震える小さな背中を。


 戦場の真っ只中で、自らに向けられる悪意の波の中にあって微塵も揺らぐことのなかったはずのその背中が、あれほどまでに小さく見えてしまった。

 その光景が脳裏を過ぎるたび、どうしようもないほどに胸が痛むのを感じてしまうのだ。

 そしてその原因が他ならぬ自分であるのだと思うたびに、厚く立ち込めた黒雲から、罪悪感という名の雨が容赦なく降り注いでくる。

 雨に打たれた心は寒さに凍え、その冷たさがますます胸を痛めつける。


 痛みから解放される方法など、分かりきっている。

 自らの非礼を詫び、パナヴィアに謝罪することだ。

 もちろん謝っていなわけではない。それどころか、お姉ちゃんを泣かせたと憤慨する子供たちをなだめるべく、あの場ではどれだけ謝罪の言葉を並べたか忘れてしまったほどだ。


 けれど、騎士として。女性を泣かせてしまった非礼を恥じ、詫びはしていない。

 そうしてしまうと自分の中にある騎士としての誇りが踏み躙られてしまうのではないか。

 その不安がアスラルを縛り付けてしまい、結局アスラルは〝何もできない〟まま、今日までの日々を、ただ無為に過ごしてしまうこととなった。

 ここのところ、パナヴィアとはまともに顔を合わせていない。

 最初のころは、どうにかして謝罪の言葉を告げようとしてみたのだが、そのたびに言葉が喉の奥に引っかかって出てこなくなった。


 そんなことを何度か繰り返しているうちに、パナヴィアのほうが政務に追われて忙しくなってしまった。

 恐らくは戦後処理というやつなのだろう。メリカールが攻撃の手を休めているうちに少しでも内政事情を整えて、次の一戦に備えているのか。

 どちらにせよ、パナヴィアは1日のうちの殆どを側近のルミエール、あるいはルーセシアの国政を支える重臣たちと過ごすようになり、ペットに構う時間は……アスラルと共に過ごす時間は、1日の政務を全て終えて、自室に戻り眠るときくらいであった。

 疲れきったパナヴィアを煩わせるわけにはいかない……というのは言い訳に過ぎないことも分かっている。

 けれどアスラルはその言い訳に甘え、パナヴィアが部屋に戻ってくる時間を裏庭での鍛錬にあてるようになった。

 そして夜が明け、パナヴィアが再び政務へ向かうのを見計らって部屋に戻り、部屋の片隅で隠れるように眠るのが日常になっていった。


 そんな毎日を過ごすようになって、さらに3日が過ぎた、ある日。

 それは、唐突に訪れた。

「クロス、陛下がお呼びだ。来い」

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