インテルメディオ ~アスラル~
かの大国メリカールが、吹けば飛ぶような小国エストリアを欲した理由は、明白だった。
四方を山に囲まれ、ろくな農地も作れないエストリアが長らく国家としての体を成してこられたのは、ひとえにその山々がもたらす良質な鉱山資源によってだった。
銅や鉄は言うに及ばず、採掘された宝石や貴金属を加工した見事な装飾品の数々は大陸のいたるところで高値が付き、職人の手による自分だけの唯一無二の逸品を求めて、はるばる遠方からやってくる金持ちも大勢いた。
この鉱山の権利と、職人の作り出す宝石細工の販売権を独占できれば、大陸に覇を唱えるメリカールにとって、大きな資金源となることだろう。
だから、一方的な宣戦布告と降伏条件に、鉱山とその資源すべての譲渡と、エストリア貴族位の全剥奪があるのには、納得できた。
そのふたつを飲めばエストリア国民すべての平穏を約束する……ということなら、もしかしたらアスラルも、降伏も止む無しと受け入れていたかもしれない。
だが……
「考えごとかしら」
鈴の転がるような声に、アスラルはハッと我に返る。
そして、すぐに居ずまいを正し、テーブルを挟んで正面に腰掛ける女性に深々と首を垂れた。
「申し訳ございません。せっかくのお招きに上の空などと……無礼をお許しください」
「いいのです。むしろ、考えごとをするなというほうが無理でしょう時期に、こうしてお茶の招待に応じて下さっただけでも、感謝していますわ」
そう言って、柔らかに。
ほんの少しだけ翳りを帯びた、けれどアスラルの心中を労わるように微笑むその優しさに、どきりと胸が高鳴る。
そうだ。決めたのは自分ではないか。
この人を守るために、自分は騎士になるのだと。
そして騎士とは、平時にあっては主君と領民を守り、有事にあっては我が身を顧みず外敵と戦う者。
であるならば、祖国エストリアを守るため、メリカールの暴徒どもと戦うことに何の躊躇いがあろうか。
ましてや。
降伏の証として、エストリア王女リスティーナ=エスリーゼを差し出せ――
などと言うような輩と。
「リスティーナ様のお誘いを断るなど、どうしてできましょうか。貴女のお招きとあれば、たとえどのような万難を排してでも馳せ参じると、お約束します」
「本当に?」
「本当です」
「嘘ではない?」
「騎士の誇りにかけて」
「では……明日の午後、またわたくしの部屋で、こうして一緒にお茶をしたいと言ったら、あなたは応えてくださるかしら」
瞬間。
再びアスラルの胸が高鳴り、そしてぎゅう……ッと締め付けられる。
「…………ごめんなさい」
「い、いえ! 私のほうこそ、軽率でした……重ねて、お許しを」
寂しそうに微笑むその顔に、アスラルは自らの行いを恥じた。
軽々しく騎士の誇りをかけたことも、勿論ある。
けれど、それ以上に。
敬愛する主君が、自分と共にいたいと言ってくれたことに歓喜した軽薄さを。
そして、それを告げたときの憂いを帯びた表情のあまりの美しさに見惚れてしまった、浅ましさを。
だが、見れば見るほどに、それも無理からぬことだと思う。
まるで純金をそのまま紡いだような髪。
触れれば指紋が付いてしまうのではないかと思う白磁のような肌。
そして、その金の縁取りと純白の台座に据えられるのは、エストリアの名匠がどれほど意匠を凝らしても決して造りえぬだろう、蒼い宝石。
峰深き山にひっそりと佇む湖面をそのまま形にしたかのような蒼い瞳と、ともすれば冷たさを感じるその色を安らぎに変えてしまう、柔らかな稜線を描く頬と、唇。
仕えてからもう10年になろうかというのに。
この、リスティーナ=エスリーゼという女性は、いつまででも見つめていたいと思えるほどに、美しい。
「お詫びにはなりませんが、代わりにお約束します。此度の戦、必ずや勝利することを。リスティーナ様と、貴女の愛するこの国と民を守り、貴女のもとへ帰ってくると、お約束いたします。
そのときこそ、またお茶にお招きください。先ほどの誓い、果たしましょう」
そんな
まったく、どうかしている。
自らが剣を捧げた、敬愛する主君の憂い顔を、美しいと見惚れるなんて。
「明日、戦へ行くのですね」
「……それが騎士の務めとあれば」
「初陣でしょう? 怖くはないのですか?」
「誰にでも初陣はあります。私の場合、それが少々大舞台であったというだけの話です」
不安げなリスティーナに、わざと〝誰にでも〟の部分を僅かに強調して、これはごく普通のことであるのだと意味を示してみる。
「ご安心ください。このエストリアは守るに易く攻めるに難い地形、メリカールがどれほどの威容を誇ろうと、狭い山道に大軍は展開できません。
それに、日ごろエストリアと親交のある国々に援軍を要請したとも聞いております。我々は山に陣を張ってメリカール軍を迎え撃ち、到着した援軍と共にやつらを挟撃してやればよいのです。なにも心配はございません」
父から聞いたことをそのまま伝えただけで、その話のどこまでを信じていいのか、アスラルには分からなかった。
ただ、少しでもリスティーナの不安を取り除くことができるなら。
蝋燭の火にも満たないものでも、彼女の微笑みから翳りを消すことのできる光になるのならば、と。
アスラルは務めて平静を保ちながら、そう告げた。
そんなアスラルの思いを知ってか知らずか、リスティーナは手元のティーカップに視線を落として、小さく頷いた。
「戦わずにすむ方法は、無いのでしょうか。血を流すことなく国や民を守ることは、本当にできないのでしょうか……」
誰ともなしに紡がれるその問いかけに、答えを求める意志は見えない。
分かっている。そんな方法があるなら、とっくにそうしている。
けれど、そう問わずにはいられない、自問とも、思案とも言えぬその言葉に、アスラルは、できるだけ優しく。
「戦うことでしか、守れぬものもあります。かの大国の前に降伏すれば、戦う以上の苦しみが民に降りかかることでしょう。私は、そのような未来になどなって欲しくはありません」
彼女の苦しみが、少しでも和らぐよう願いながら、そう応えた。
アスラルの言葉に、リスティーナから返ってきたのは暫しの沈黙であった。
分かっている……という意味か。
それとも、頭では分かっていても心では納得できない……か。
「……ねえ、アスラル」
やがて、囁くようなつぶやきと共にカップを置いて静かに席を立つリスティーナに倣い、アスラルも立ち上がった。
「アスラルは、言っていましたね。わたくしを守るために騎士になったのだ、と」
「はい、そのとおりです」
「そうであるならば……」
す――と。
アスラルから視線を逸らし、リスティーナはひとりバルコニーへと歩みを進めた。
そして、眼下に広がる街並みを見つめながら。
アスラルに、背を向けたまま。
「もし、本当にそうであるならば、明日は戦になど行かず、わたくしを守るために、わたくしの傍にいてください……と願ったら、あなたは応えてくれますか?」
どくん! と。
今までで……もしかしたら、これまで仕えてきた10年のなかでも、一番激しいのではないかと思うほどの音が、アスラルの耳に木霊した。
応えたい、と思った。
「……もしも」
「もしも?」
敬愛する主君の、叶わぬと分かっている願いだからこそ。
「もしも、それがリスティーナ様の……いいえ」
それに、応えたいと、強く思った。
「リース様の心からの願いとあれば、私は全身全霊をもって、それにお応えいたしましょう」
だからアスラルは背筋を伸ばし、自らの胸に握り拳をあててそう応えた。
そんな言葉に、やがてリスティーナは……。
いや。
「ずるい」
「リース様こそ」
ゆっくりと振り返ったリースの顔には、寂しそうな、けれどすべて分かっているというふうな微笑みが浮かんでいた。
「本当に、もう。アスラルは昔から立派な騎士さまね。本当、立派すぎて、悔しくなってしまうわ。わたくしはこんなにも、我が儘で自分勝手なお姫さまなのに」
「ご冗談を。私がそう在れるのは、他でもないリース様のおかげです。リース様が国を、民を、心から愛する方だからこそ、私もそれに倣い、そう在れるよう努力してこられたのです。我が儘など、とんでもない」
そう。リースはこんなときに、こんな願いを抱く女性ではない。
それが分かっているから。
10年も共にいる主君の想いは、もはや家族以上に理解できているからこそ。
アスラルは胸を張って、そう応えられたのだ。
「……じゃあ、小さい頃からもっと奔放に、自分勝手に振る舞っていたら、あなたは今のお願いを聞いてくれたかしら?」
もしかしたら……いや、もしかしなくとも、そんな願いを僅かに抱くくらいはあるだろう。
アスラル自身も、もしそれが叶うのならば、ずっと。
片ときも離れることなくリースに付き従い、彼女を傍で守り続けたいと願っているのだから。
「もっと、ですか? さて、私の記憶では、リース様は昔から十分奔放で、お転婆なお嬢様であったように思うのですが」
けれど、それは我が儘だと。
貴族として、なにより王族として恥ずべきことだと、リースは分かっている。
ならばアスラルもまた、彼女に仕える者として、彼女に相応しい騎士であり続けてきた。
だからこそ分かった。
こんなときに彼女が求めているのは、気遣いでも、慰めでもないのだと。
「まあ、失礼。わたくしがいつそのような振る舞いを?」
「下々の者たちの生活を知ることも王族の務めであると、護衛騎士見習いに脱走の手引きをさせる姫君を、お転婆以外にどうお呼びすれば?」
「仕方がないじゃない。城下の視察に行きたいとお父さまにお願いしたら、厳つい顔のおじ様たちが何人もわたくしの周りを取り囲んで、ロクに身動きも取れなかったのよ? あんな恰好じゃ、町の様子なんて全然分からなかったわ」
「心中お察しいたします。ですが、だからといって護衛役に家から子供用の女中服を持ってこさせるというのは、些か度が過ぎると思うのですが」
「だってお傍付きのメイドに頼んだって、絶対に貸してくれないもの」
「だとしても多感な少年を女中の部屋に忍び込ませて、あまつさえ服を漁らせるなんて。一時の我が儘で、前途ある騎士見習いの人生を狂わせていたかもしれませんよ」
「まあ! アスラルってばそんなはしたないことをしていたの!? 信じられない。前言は撤回します、なにが立派な騎士さまなものですか」
「そ、それをさせたのはリース様ではありませんか」
「何て言い草! ますます見損なったわ。己の恥を主君のせいにするというの?」
彼女が求めているのは、変わらぬ日常だ。
なんでもない、少し退屈な平穏だと。
「……っぷ、あはははは、もう、アスラルってばおかしい。そんな恥ずかしいことをしてまで、わたくしの我が儘を聞いてくれたの?」
「リース様のお望みとあれば、ひとつでも多く叶えて差し上げたいと願っていたのです。それが私の喜びであり、それをできるのが他ならぬ私であるというのが、ささやかな誇りでした」
今は決して叶うことのない願いなのだと、分かるから。
ひとつでも、多く。
「そして、それは今も変わりません。エストリアを、そこに住む民を守りたいというリース様の想いを預かる栄誉、どうか我が剣のひと振りにお与えください」
我ながら恥ずかしいことを言っているな、と思わなくはなかった。
けれど、不思議と言葉を紡ぐのに躊躇いは無かった。
彼女のもとへと歩み寄り、その足元に恭しく
彼女に仕える騎士として。
リースの願いは、ひとつでも多く叶えたかった。
「……本当に、もう。わたくしを置いて、ひとりだけそんな立派な騎士さまにならないでよ。そんなふうに言われたら、大切な騎士に向かって〝祖国のために死ね〟と告げなければならなくなるじゃない」
「覚悟はございます。ですが、そのつもりはございません。もし死んでしまっては、貴女のもとへ帰ってくるという約束を守れなくなってしまいます」
彼女に仕える騎士として。
そして、穏やかな日々を共に過ごすにふさわしい、お互いに何を考えているか、何を願っているのか分かるほどに、親しい友人として。
「こうして貴女と語らいながら、またお茶を頂くことこそ、我が身命を賭して守るべき約束です。ご安心くださいリース様。アスラル=レイフォードは、必ずや誓いを果たすべく、生きて貴女のもとへと戻ります」
「……約束ですよ」
しゅ――という衣擦れの音と共に、リースの透き通るほどに白い手が差し出された。
「騎士の誇りにかけて」
それを取るには、自分の手は日々の鍛練であまりに無骨になりすぎている。
だからこそ、誓いの言葉と共に、静々と。
壊れ物を扱うように。
「エストリアに仕える身でありながら、貴女のために生き、貴女のために誓いを捧げることをお許しください。
我が君、リスティーナ様」
世界中の何よりも大切なものを扱うように、そっと取ると。
その指先に、小さく口づけた。
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