第9話 再戦の予感
日も明けきらぬ……いいや、日が出るまではまだ随分と時間があるだろう夜の闇が支配する中、薄い天幕の向こうでパナヴィアが目を覚ましたのがアスラルには分かった。
アスラルもまた、少し前に目を覚ましていたからだ。
空気が震えていた。
ざわついている、というほうが的確かもしれない。
落ち着きの無い、緊張ばかりが先走って足元がおぼつかなくなるような空気に、アスラルは勿論、パナヴィアもまた不快感を抱いたのだろう。
その不快感の正体がなんであるのかを知るのは、それからすぐだった。
「夜分に失礼いたします、陛下。お目覚めでいらっしゃいますでしょうか」
こつこつこつっ、と忙しないノックに続いて、早口な男の声が聞こえた。
「ルミエールか。ああ、起きておるよ。入れ」
暗闇の中聞こえたパナヴィアの声から暫くして、ドアの隙間からランプの光が入ってきた。
その灯りに照らし出されるように、身なりのいい青年の姿がうっすらと浮かび上がる。
「夜分に申し訳ございません。しかし、急ぎご報告いたしたく思いまして……」
「ならばさっさと言うがいい、前置きは無用じゃ」
その姿は、はじめてパナヴィアと会話をしたあの牢獄で見かけた覚えがある。
このような時間に屋敷の主人の部屋を訪れてくるところから察するに、彼はやはりパナヴィアと近しい立場の人間であるようだ。
「は……も、申し訳ございません。では、用件を。メリカールが国境へ侵攻している、との報告が、先ほど入りました」
お付きの……ルミエールと呼ばれた青年の言葉に、パナヴィアは勿論、何よりもアスラルは弾かれたように大きく反応する。
アスラル率いる剣奴隊を先陣にしたルーセシア侵攻で大敗を喫してから、まだ一週間と経っていないというのに。
敗北の傷も癒えぬうちに、また無謀な攻勢をかけようというのだろうか。
つくづく前線指揮官の……いいや、その前線指揮官に無茶な命令を下しているのだろう、メリカール王子カリウスの暗愚には呆れる。
メリカールに愛着などあろうはずもないが、カリウスの無茶に振り回されるという点では、アスラルは前線指揮官に多少なりとも同情しそうになった。
「うむ、ではジジイどもを……っと、ごほん。諸大臣方に屋敷へ来るよう
「畏まりました」
恭しく礼をしたルミエールは、アスラルのほうをちらり……いや、どちらかというとギロリという感じで一瞥してから静かに退室していった。
――まさかこいつがメリカールの犬なのではあるまいな。
そんな台詞が聞こえてきそうな視線に、アスラルは苦笑を零す。
メリカールの、犬。まさにそのままだ。
「クロスよ。そちも起きておろう?」
天蓋の向こうから聞こえてきた声に、アスラルは軽く頭を振って自嘲の靄を振り払う。
「……ああ、起きている」
「ならば今の話、何と見る?」
パナヴィアの質問の意図が分からずに、アスラルは暫くのあいだ沈黙で答えた。
「先の、そちを拾ってきた戦の敗走から数日。舌の根も乾かぬうちにまたしても攻め込んでくるということは、前線指揮官はただの阿呆か?」
パナヴィアの問いかけに、アスラルはやはり沈黙で返す。
そうだ、と肯定してやりたいところではあったが。
「それとも、先の敗戦から勝てる見込みがあっての連戦かのう? 例えば、敗走と見せかけてこちらの油断を誘う布石、もしくは実際に刃を交えての威力偵察。あるいはその両方の意図があってか……」
パナヴィアの言葉に、アスラルは彼女の真意を悟ると同時に、己の狭量を恥じた。
そうだ。憎いメリカールとはいえ、敵は祖国エストリアを滅ぼした大国だ。がむしゃらに突っ込むだけの猪武者ばかりとは到底思えない。
仮にカリウスがそうであったとしても、それを支える歴戦の将校たちまで、揃って阿呆であるはずが無い。
「その可能性は、十分にあると思う。何せ、ろくな情報も無しに俺たち奴隷を先陣にしての突撃だったからな。多分、俺たちの負け戦ぶりを見て、ルーセシアの戦力をある程度推し量ったんだと考えられる」
ついでに言うと、体のいい廃棄処分という理由もあったのだろうな、とアスラルは心中で付け加えた。
連戦連勝を続けた剣闘奴隷には、褒賞という形で恩赦が与えられる。すなわち奴隷を辞めて、メリカールの二等市民としての市民権を得られるのだ。
アスラル個人としては別にそんなもの欲しくは無いが、カリウスにしてみればそれは都合の悪いことだったのだと容易に想像できる。
だからリスティーナの名を餌に、アスラル自ら戦場行きを志願させる格好にして、そのまま亡き者にしてしまおうという意図があったのだろう。
そして、その意図にまんまと乗ってしまった自分の無明に、今さらながら悔しさがこみ上げてきた。
「で、あろうな。もっとも、そう易々と国境線は破られんじゃろうが」
「……過信は禁物だと思うけどな」
「過信などではない、確信じゃて。何せ先の一戦で、メリカールにも恐るべき化け物がおることが分かったからのう。皆、気を引き締めてかかることじゃろう」
「メリカールに、化け物? 言っておくが、メリカールにはお前たちみたいにオーガに変身できるようなヤツは一人もいないぞ」
「知っておるよ。じゃが
すい、と天蓋から垂れる薄絹のあいだからパナヴィアが顔を覗かせる。その顔にはニマリとした笑みが浮かんでおり、意地悪そうにアスラルを見つめていた。
思わずパナヴィアから視線を外したところで、再び部屋の扉がノックされる。パナヴィアが応えるとすぐに扉が開かれ、そこから数名のメイドたちが粛々といった様子で入室してきた。
「身なりを整え、部屋の外で待っておれ。妾もすぐに行く」
「……俺が待っている理由は、無いと思うんだけどな」
「ペットが主人を待つのに一々理由が要るか? 文句を言わずに、大人しく待っておれ」
どこか小ばかにしたような、しかし有無を言わせぬパナヴィアの言葉に、アスラルは溜息を零しながら、それでも与えられたお仕着せを手に部屋を出て行くのだった。
もしかしたら、そのまま逃げることもできたのかもしれない。
パナヴィアに命じられている内容の中に、パナヴィアの命令に逆らうな、という項目はあれど、ここから逃げ出すなというものは含まれていないのだ。
この場を逃げ出し、国境線を侵略しているメリカール軍のところまで行けば、もしかしたら帰還兵として受け入れられるかもしれない。
……そんな、砂粒ほどの希望もあるにはあった。
だがアスラルは、言われたとおりにお仕着せを身にまとうと、パナヴィアの部屋の前に腰を下した。
メリカールに帰って、戦場で武勲を立て、リスティーナを取り戻す。
今まではそれしかないと思っていた。だがその結果、誰よりも喜ぶのはカリウスではないか。
そして、あのカリウスが、アスラル〝ごとき〟奴隷と交わした約束を律儀に守るとは、到底思えない。
それに、メリカールに戻るということは再びルーセシアと……パナヴィアと戦うということだ。
(そうだ。俺はあいつと戦えない。俺が生きるためにも、あいつに剣は向けられない)
彼女にかけられた呪いがある以上、アスラルにルーセシアと戦うという選択は無い。
あるいはこのまま逃げ出して、ルーセシアでもメリカールでもない別の国に拾ってもらうという手も無いわけでは無いだろうが、それはもはや大平原のどこかに落とした宝石を見つけるよりも難しい話だろう。
(生きてさえいれば、いつかリース様を救い出せるはず……はずなんだ)
今のアスラルはパナヴィアのペットでしかない。そんなペットにできることといえば、メリカールがルーセシアと戦い続け、そのまま国力が低下してくれることを祈るだけだ。
そして戦争のどさくさに紛れてメリカール王都へと潜入し、リースを救い出す。
……そんな、絵に描いた餅にもならない不確かな未来を信じながら、アスラルは廊下に開いた窓の向こうに広がる、僅かに白が混じり始めた夜空を見上げるのだった。
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