第8話 裏庭のドッグファイト2

 アスラルがそう叫んだのと、遠心力を目一杯に利かせたブラシの先端が青年のこめかみに照準を合わせたのは、どちらが早かったろうか。

 その瞬間を判別することは、アスラルにはできなかった。

 その代わりに。


 スン――と。


 先端が青年のこめかみにめり込む寸前に、斜め上から駆け抜けた漆黒の長槍が、ブラシの柄を切り捨てたことだけは、はっきりと見定めることができた。

「……え?」

 アスラルの口から、呆気に取られたような声が零れる。

 ブラシの先が宙を舞うのが、やけに遅く感じた。そしてそれが地面に突き刺さった長槍の元に転がるのと、


「それまでじゃッ!」


 幼く、しかし凛としたよく通る声が裏庭一杯に響き渡ったのが、ほぼ同時だった。


「双方、止まれぃ! 他の者も、その場から一歩も動くでないぞ!」


 その声がパナヴィアのものであることを知覚したのは、恐らく全員が同時だったろう。

 だがその声の発信源がどこかを見つけたのは、青年の巨体を〝見上げていた〟アスラルが一番早かった。

「ぱ、パナヴィア……ッ! な、何て格好で!? って、いや、あ、危ないだろ!!」

 思わずそう叫んでしまったのは、パナヴィアの外見が幼いせいもあるだろう。

 何せ、屋敷の3階にあるテラスの手すりに足をかけて、半身乗り出したような格好で裏庭を見下ろしているのだから。

 子供が危ない真似をしていたら、思わず注意せずにはいられない。


 しかもそれだけではない。

 恐らく彼女の寝巻きなのだろう、薄絹で拵えたネグリジェのようなものを一枚纏ったきりの姿で、だ。

 そんな格好で片足をテラスの淵に乗せているものだから、裾がひらめくたびに瑞々しい太ももが惜しげもなく晒されてしまっている。

「パナヴィア様!? ど、どちらに……」


「全員伏せぃッ! 手を頭の後ろに組め! 額を地面に擦りつけぃ! 妾が〝よし〟と言うまで、絶対に動いてはならぬぞ!」


 声の主を探そうとしたのだろう、アスラルと対峙していた巨躯の青年が辺りを見渡そうとした瞬間、パナヴィアの怒声が響き渡る。

 その声に弾かれるように、青年たちはパナヴィアの言いつけどおり、額どころか顔を地面にめり込ませるような格好になった。

「クロス! 来い!」

「え……っ、あ、は、はいっ!?」

 引っ叩くような声に、アスラルは思わず背筋を正して返事をしてしまう。

 しかし、来いと言われてもパナヴィアは3階、アスラルは裏庭の地面だ。すぐには……。

「何をしておる! 来いと言っておろう!」

 人差し指一本で招く仕草に、アスラルはどうすればよいのか分からず、結局そのまま、言われたとおりに屋敷のほうへと小走りで行くしか思いつかなかった。

 そして、ちょうどパナヴィアを見上げることのできる、テラスの真下へと移動する。

「うむ、そこでよい。受け取れ」

 直後、アスラルめがけて何やら白いモノが投げて寄越される。

 ぽふっとした感触に、それが大きなクッションであることをアスラルが認識した、次の瞬間だった。


「落とすでないぞ」


 まるでそうするのが当たり前、と言わんばかりの自然な動きで、パナヴィアは何の躊躇いも無くテラスから身を踊らせ、宙を舞っていた。

 一応の恥じらいはあるのだろう、ネグリジェの裾は両手でしっかりと抑えている。

 そしてそれは、もはや完全に受身も何もあったものでない、ただの落下としか言えない格好であることは、


「わぁああぁあぁッ!?」


 明白である、とアスラルの頭が理解した瞬間、アスラルは絶叫していた。


 ――ボロボロになったそちの命は、妾の命を継ぎ足して……。

 ――妾の死は、そのままそちの死と繋がっておると……。

 ――妾を殺すということは、そちが自決することと同意であると……。


 ここに来て初めてパナヴィアと会ったときに交わされた物騒な言葉が、アスラルの脳裏を駆け巡る。

 その言葉の後押しを受けたわけではないだろうが、アスラルは手にしたクッションは勿論のこと、全身のバネを最大限に活かしてパナヴィアを受け止め、その衝撃を流しきった。

「ご苦労」

「ご……ご苦労って……」

 このときばかりは、パナヴィアが小柄な少女であることに心から感謝した。

 もし大の大人と同じ背丈だったら、いくらクッションの助けがあっても受け止めきれたかどうか分からない。

「実に優雅な受け止め方であったな。褒めてつかわす」

 そんな危惧など何処吹く風か。パナヴィアはクッションから立ち上がると、尻餅をついてへたり込むアスラルの頭をくしゃりと撫でる。

 そしてそのままスタスタと、地に伏した巨体のもとへと歩いていった。

「よし。そのほう、おもてを上げい」

「は……ははぁ……」

 パナヴィアの言葉に巨漢は……いいや、もとはアスラルとそう歳の変わらぬ青年は、厳つく変化したはずの顔をくしゃくしゃに歪ませ、叱られた子供が母親を見上げるような眼差しで顔を上げた。

 その顔はひどく滑稽で、そして思わず憐憫を誘わずにはいられない、そんなものとしてアスラルの目に映った。

 だからだろうか。

「早朝よりの訓練、精が出ておるようじゃな。より強くなろうとするその心がけ、武人として何よりも尊いものじゃ、褒めてつかわす」

 淡々とした調子の、余りに予想外なパナヴィアの言葉にアスラルは勿論、オーガと化した青年も、そのぎょろりとした目をぱちくりとまばたかせた。

「は……ははぁ。勿体無いお言葉、あ、ありがたく……」

「じゃが、少々騒々しいのが問題じゃの。今後、大声を張り上げるような訓練をするときは練兵場にて行うよう心がけよ。他の者も、よくよく覚えておくようにな」

「は、ははぁっ、かしこまりましてございます!」

 叱られると思っていたのが、予想に反して思いもよらぬ評価の言葉を貰えたからだろう。人間の目から見れば化物と形容するに相応しい形相の青年はだらしなく頬を緩ませ、ネグリジェ姿のパナヴィアを見つめていた。

 いや、見とれていたと言ってもいいかもしれない。

「それとな」

 だからか、そう呟いたパナヴィアの言葉に、冷たいものが混じったことに気付かなかったのだろう。

 青年は頬を緩ませたまま、無防備きわまり無い顔でパナヴィアを見つめたままだった。

「お主も知っているとは思うが、今はメリカールとの戦時下。財政は逼迫とは言わぬが、切り詰められるところは切り詰めたいのが現状じゃ。そこでじゃ、お主に問いたいのじゃが」

「ははっ、何なりと」


「ペットに負ける兵隊を養うための飯代は、どの辺りから捻出すればよいかの?」


「……は?」


「聞こえんかったのか? ペット如きに負ける無様な護衛役気取りの新兵を養ってやるための飯代は、この財政事情のどの辺りから捻出すればよいのかと訊いておるのじゃ」


 緩みきった頬に冷水をぶちまけられたような。そんな形容ができそうな顔で再び目をぱちくりと瞬かせ、そこでやっとオーガの青年は、パナヴィアの真意を理解した。

「もッ、申し訳ございませんパナヴィア様!」

「何が申し訳ないじゃ、たわけめッ! 謝る暇があったら! 下らぬ嫉妬で心を惑わせている暇があったら! せめて妾に一太刀入れられるよう精進せぬか、この半人前ども!」

「はっ、ははぁっ!」

「分かったら練兵場まで駆け足! 鍛錬に励めぃ! 昼飯が終わったら、お主たちがどれだけ研鑽を重ねたかを妾が直々に確かめてやるゆえ、ありがたく思え!」

「ははぁ!」

「もし今しがたこやつとジャレておったときのような無様な戦いぶりを見せてみろ、連帯責任として訓練兵全員揃って今日の晩飯は抜きとする! 軟弱者に食わせる飯は、このルーセシアには小麦の一粒とて無いと心せよ!」

「ははぁーーっっ!」


 もはやアスラルは、ただ呆然と見守るほか無かった。

 青年たちがパナヴィアに向かってひたすら頭を垂れ続け、言われたとおり全速力で裏庭から走り去ってゆくその光景に、一体何をどう言えばいいのか、皆目見当も付かなかった。

「……ふう」

 やがて、青年たちの足音が聞こえなくなると、ようやく……といった風にパナヴィアは怒らせていた肩を下し、力の抜けたような溜息を零す。

「いつまで座り込んでおる。とっとと立たぬか、みっともない」

 くるりとアスラルのほうへと向き直ったパナヴィアの顔には、もう怒りの色は浮かんでいなかった。

 代わりに眉を寄せて、僅かに頬を膨らませながら、へたり込んだままのアスラルを視線だけで見下ろす。

「まったく……。屋敷の者には危害を加えぬという言いつけ、もう破りおったか」

「……すまん」

 しかし、その視線に咎めるような色は無かった。

 口調そのものは叱りつけるようなものではあるが、それはどこか、腕白わんぱくな子供を見守る母親のような音が含まれていた。

 そんな音に、アスラルは苦笑交じりに立ち上がる。

 こんなに小さな、どう見たって12、3……贔屓目に見ても15がいいところだろう少女のような姿をしているというのに、こんな顔で、こんな声をするのか、と。

 そして自分もまた、そんな感覚をこの少女に対して抱いてしまうなんて、と。


「毎朝やっておったのか?」

「え?」

「ブラシダンスじゃ」

「ブラ……っておい、なんだその珍妙な名前の遊びは?」

「冗談じゃ、そのくらい分かれ。素振りじゃよ。毎朝やっておったのか?」

「……起きてたのか」

「そちが部屋を出たときにの。暫く待っても戻ってこぬから探しにいこうとしたら、裏庭から何やら音が聞こえてきたからな、聴いておったのじゃ」

「聴いて?」

「うむ、素振りの音をな。空を切る音が実に整っておったからの、ベッドに戻って暫し聴いていたのじゃ。幾重にも試行錯誤の繰り返された、澱みの無い、心地よい旋律であった」


 そう言って、パナヴィアは地面に突き刺さったままの自身の槍へと歩みを進める。

 そしてそれを無造作に引き抜くと、おもむろにそれを振り回した。

 ……いや、違う。

 振り回すのには違いないが、これはそんな粗野なものではない。

 アスラルの故郷エストリアのものとも、ましてやメリカールのものとも違う。ルーセシア独自の文化で洗練されたのだろう、槍術の型だ。


「武器は即ち凶器であり、凶器を用いて行うは殺しの技。じゃがさらにその技を磨き上げると、美しさという次元に辿り着く。

 おかしなものじゃと思わぬか? 相対あいたいした者の命を奪うためにのみ用いられる血生臭い技術を、美しいと感じるなど」

 ひゅん、とパナヴィアの振るう槍の穂先が、朝の澄んだ空気を切り裂く。


「畏怖なのかもしれぬな。抗いようの無い死を前にしたとき、命はただただ恭しく、刈り取られる前の麦のごとく頭を垂れるしかなくなってしまう。殺人術を美しく感じるのは、そういう理屈なのやもしれぬな……と、今しがたそんな風に思った」

 槍が舞うたびに薄絹のネグリジェがたなびき、それが朝の光を受けて薄紫の輝きを散らす。その光景は確かに、彼女の言うとおり美しいものであるとアスラルは感じた。

「そちの素振りにも、そんな音を感じたゆえな。まどろみの中、暫しのあいだ聴き入っておった」

「……お褒めに預かり、光栄だな」

「しかし、そこへあの阿呆どもが……全く、二度寝の心地よさも吹き飛んでしまったではないか」

 槍を下し、再びぶすっと頬を膨らませるパナヴィアに、アスラルは再び苦笑を浮かべる。

「別にいいんじゃないかと、俺は思うけどな。気に入らない相手がいるっていうのは、ある意味では良いことだ。そういう相手がいる以上、ずっと成長していられる」

 と、そう言ったとき、アスラルは自分の言葉にふと思い至った。


 もしかしたら。

 パナヴィアは〝そういう理由〟で、自分をペットなんてふざけたものにしたのではないだろうか、と。

 メリカールとの戦いが続く中、兵の一人一人が少しでも強くなれるよう、あえて自分のような存在をパナヴィアの傍などという、皆の目に留まる位置に据えたのではないか。

 ……というのは、考えすぎだろうか。


「さて、と。やれやれ、朝っぱらから声を上げたせいで少し汗をかいてしもうたわ。クロスよ、朝食の前に湯浴みにゆくぞ」

 そんなふうにアスラルが考えているなどとは思ってもいないだろう、パナヴィアはいつもの調子に戻ると、踵を返してアスラルに背を向ける。

 そして肩に担いだ槍の穂先をくいくいと動かして、アスラルを招いた。

「湯浴み? こんな朝早くからか?」

「朝早いからよいのではないか。起き抜けに熱い湯を頭から被るのは心地よいぞ。それにほれ、そちの格好を見よ。汗まみれで土まで付けよって、みっともない。まさか、そのような汚らしい格好で朝食の席につくつもりではあるまいな?」

「いや、それはそうだが……湯を沸かすのには時間がかかるだろう。俺は水でいい」

「それだと妾が寒いではないか。安心せい、妾は綺麗好きじゃからの。毎朝きちんと妾の湯浴み用に湯を沸かすよう、メイドに言いつけてある。遠慮することはないぞ」

「……そうなのか。それなら……」


 それなら悪くないか……。

 そんな考えが脳裏を過ぎりそうになった瞬間、アスラルは自らの足を止める。


「水浴びにいってくる」

「じゃから、それだと妾が寒いと言うておるじゃろうが」

「だから〝俺は〟水浴びに行くと言ったんだ。〝お前は〟湯浴みに行けばいいだろう」

「なんじゃと? おのれ、主人の親切を無にするつもりか?」

 やっぱり、と。アスラルは心中で溜息を零すと同時に、何とかその思いが声や態度に出ないよう、心がける。

 妾の湯浴み用に。

 確かにパナヴィアはそう言った。だがそこに〝クロスの分も別に〟とは、一言も入っていないのである。

「ペットの俺には、恐れ多いって意味だ。感謝はしてる」

「なればその感謝を素直に体で表現すればよい。過分な遠慮は逆に妾の癪に障るぞ?」

 そう言って僅かに振り向きながら微笑むパナヴィアに、アスラルは思わず後ずさりそうになるのをどうにか堪えた。

 目を細め、口の端だけを吊り上げてニヤリと笑うその顔に、先ほどうっすらと感じた、子供を見守る母親のような色は、もはや微塵も無い。

 代わりに、面白い悪戯か何かを思いついた苛めっ子のような、無邪気で残忍な笑みがありありと浮かび上がっていた。


「ペットの体を洗ってやるのも飼い主の務めゆえな、遠慮することは無いぞ」

「え、遠慮じゃない。遠慮じゃなくて、これは……」

「よもや拒否などと言うまいな? それでなくとも、そちはつい今しがた言いつけを破ったばかりではないか。となれば、それを償うためにもきちんと他は守らねばなぁ?

 たとえば、妾の言うことには絶対に従う……とかのう」


 ……もしかしてパナヴィアは、兵の一人一人が少しでも強くなれるよう自分を……。

 一瞬でもそんなふうに考えてしまった自分に大いに恥じ入りながら、アスラルはニヤニヤと哂うパナヴィアの前に力無く白旗を揚げた。


「物分りの良い子は好きじゃぞ。おお、そういえばほれ、クロスよ。そちはブラシを2本、へし折っておるなぁ? その分はどう弁償するつもりかえ? 給金ももろうておらぬ無駄飯食いのペットでしかないそちが、どのようにして弁償するのかのう?」

 1本は確かにそうだけれど、もう1本を折ったのはお前だろう。

 ……などと反論する気力も失ったまま、アスラルはがっくりと肩を落としながら、パナヴィアの後についてゆくのだった。


(おはようございます、リース様。アスラルは、今日もまだ生きております。

 いつの日か貴女をお救いするために、恥を忍んで生きております……)


「どこからがよいかのう? やはり先ず髪の毛か。いやいやそれとも背中か? あるいは……くふふふっ。ほれ、なにをしておるクロス、早うついて参れっ♪」


(もしも貴女をお救いするときに、男の尊厳を全て踏み躙られていたとしても、貴女は自分を、貴女の騎士として扱ってくださるでしょうか)


(それだけが、気がかりでなりません……)

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