第26話 真実、そして別離

 アスラルの言葉に、パナヴィアはくりくりとした目を見開いて、無言で応えた。

 恐らくさっきのアスラルも、きっとこんな顔をしていたのだろう。

「な、なぜじゃ? 近衛じゃぞ? 近衛兵団じゃ。一体どれほどの者が女王付きの近衛に憧れておると思う? その栄誉を、そちは要らぬと申すか?」

「ああ、不要だ。そんな肩書きが無くても、俺がお前を守ることに変わりはないし、戦場にだって付いていくさ。それの何が不満だ?」

 極めて静かにそう返す自分の声が、ひどく冷たいもののようにアスラルには感じられた。

「妾が不満じゃと? 馬鹿を申すな。妾はそちのためを思うて近衛に取り立ててやろうと言うておるのじゃぞ? 近衛になれば、もうそちは自由の身になれるのじゃぞ? 俸禄も出る、好きなものも買える。それの何が不満じゃ?」

 パナヴィアの声に、僅かだが焦りが含まれているのを感じた。

 いや、これは焦りではなく、苛立ちだろうか。

 しかし、だからと言ってアスラルが折れることはなかった。


「自由? 何を言ってるんだ、今だってもう十分自由じゃないか。今の俺を見ろ。女王付きのペットということで、こんな立派な屋敷の中で寝泊りできているし、毎日3回腹一杯に食事もできる。買い物も必要無い、日々の食事と雨風を凌ぐ寝床があれば、それで十分だ。

 ほら、もう俺は十分に満たされているじゃないか」


 大仰に手を広げてみせ、若干芝居がかった調子でアスラルは続ける。


「俺がいた闘技場での生活を知っているか? 毎日毎日、飽きることもなく続く殺し合い。血と汗と汚物の臭いに塗れながら、泥みたいな飯を食って、ボロ雑巾のように眠るんだ。それと比べればここはまさに天国じゃないか。

 それに考えてもみろ。ついこの前までメリカールの奴隷だった俺が、お前のペットになったってだけで要らぬ妬みを買うことになったんだぞ? それが今度は近衛だって? どれほど嫉妬されればいいのか、俺には見当もつかない。余計な波風を立てるくらいなら、今のままが一番だ」


 そうだ。何を思い悩むことがある。

 パナヴィアは飼い主で、自分は愛玩動物。百歩譲っても、敵国の女王と、そのお情けで生かされている奴隷。


 アスラルとパナヴィアとの関係は、それ以上でも以下でもない。

 そう。あっては、ならないのだ。


「……本当に? 本気で、そう言っておるのか?」

「ああ、本気だ。これ以上の望みなんて、分不相応にも程がある」

 首を振り、大袈裟な溜息を零してアスラルはそう言い切った。

 ……いや、言い切った、つもりだった。


「それほどまでに、そちの忠義は揺るがぬというのか?」


 どくん、と。

 アスラルの心臓が、大きく跳ねたような気がした。

「……なんのことだ?」

「隠さずともよい。もしやとは思っておったが、今の言葉で確信した」

 そう呟くように告げられたパナヴィアの言葉に、アスラルは背中に冷たいモノが走るのを感じた。

「妾は言うたな? 危害を加えるとは暴力のみを指して言うものか、と。否。妾に対する敵意や害意、殺意、そういった悪意ある感情そのものに対しても等しく効力を発揮する。

 そしてまた、妾を騙し、欺き、貶めようとする想いに対しても、同様じゃ」

「……それがどうした?」

「分からぬか? いや、分からぬであろうな、そちは阿呆じゃからの。妾の厚意を無碍むげにするなど、どれほど妾を傷つけることになるかということにさえ、頭が回っておらぬのじゃから」

 勝ち誇ったように、それでいてどこか悔しさを紛らわすように鼻を鳴らすと、パナヴィアはキッとアスラルを睨みつけるように見つめる。


「今のそちの発言と態度が、もし本気で妾の厚意を踏み躙ることが目的であったとするならば、そちは千の苦痛に全身を蝕まれておったことじゃろう。

 じゃが、どうじゃ? まるで何事もないかのようにケロッとしておるではないか」


 しまった、と思ったときにはもう手遅れだった。


「然るに、そちが妾の厚意を無碍むげにする理由は他にある。

 奴隷には分不相応? 阿呆が、もし正真正銘の奴隷ならば、今頃そちは涎を垂らさんばかりのマヌケ面で、耳障りなおべんちゃらでも並べておるに違いない。

 飢えと貧困の中で生き、他者に生殺与奪を支配される者たちにとって、自由が万金にも値する至宝であることをまるで分かっておらんと見える」


 それにな、と続けて、パナヴィアは不意に頬を僅かに緩める。


「生まれも育ちも卑しい身分の者が、たかだか十数日の独学であれだけのご高説を垂れられるものか。もしそうなら、今すぐにでもその勉学法を子供たちに教えてやってくれ。妾の泥臭い学習法では、その見識を身につけるまで丸1年はかかるからな」


 口の端を微かに上げているだけの、極めて無表情に近い淡い微笑み。

 けれどそれは、今のアスラルにとって鋭利な刃物を目の前に突きつけられているような、そんな風に感じられて仕方がなかった。


「もしやとは思っておった。大陸統一をお題目にところかまわず侵略戦争を吹っ掛けておる国じゃ、滅ぼした国の者を奴隷として飼うくらいしていよう。じゃが、まさか本物の騎士様とはの。奴隷に身をやつしてまで生にしがみつくその理由も、やはり忠義ゆえか?」

「……だから、なんのことだ? 俺はメリカールの剣闘奴隷で……」

「もうよいというに。敢えて飼い犬の身に甘んじようとするのは、二君に仕えずという忠心ゆえのものか? だとしたら見上げた心意気じゃと思う……じゃが」

 す……と。パナヴィアの瞳が細くなる。


「その忠心、一体誰に対してのものじゃ?」


 一瞬、パナヴィアが何を言っているのかアスラルには分からなかった。騎士にとって忠義を捧げる相手など、一人に決まっている。

 そう言い返してやりたかったが、あくまで知らぬ存ぜぬを突き通すアスラルは、ただ無言で応じるだけだった。

 だが、次の瞬間それは脆くも崩れ去った。



「祖国に対してか? であるなら、なぜそちはあれほどまで生きようともがいた? もうそちの祖国は滅んだのであろう。であるならば追い腹切るくらい、忠誠心厚いそちならば造作もあるまい。

 それともメリカールへの復讐心か? 違うな、もし復讐を遂げるためにのみ生きているのならば、メリカールと真っ向から戦っている国の正規兵の身分は喉から手が出るほど欲しかろう? ならば、後は何じゃ?


 ……国も民も守れず、それでもなお浅ましい生にしがみつく、無知蒙昧むちもうまいな暗愚の王への忠義か?」



「パナヴィアッ!!」



 それは殆ど反射的なものだった。まったく考えも無い、ただの感情に任せただけの子供じみた怒声だった。

 そう。感情に任せただけの。自らの主君を愚か者と罵ったパナヴィアに対する、殺意にも近い怒り一色に染まった声だった。


 ゆえに。

「が……ッ!? は……ぐ……ぅぁっ!?」


 どくん、と心臓が大きく高鳴ったのが分かった。

 そして、次の鼓動が、まったく感じ取れないことも、分かった。

 肺が圧迫される。

 全身の血液が一瞬にして凝固してゆくかのような錯覚。

 それは、ここルーセシアに来て初めてパナヴィアと出会ったときに味わった、あの苦しみであった。


「なぜじゃ? 何ゆえにそこまでする? それほど苦しんでまで貫く忠義とは何じゃ!? 妾には分からぬ、答えよクロス!」


「……それが、忠義だ。どんな苦しみの中にあっても、守り、貫き通すべきもの……。お前も、仮にも女王なんだ、分かるだろう……?」



「分かる! 分かるに決まっておる!

 じゃが分からぬ! 騎士が主君に忠義を尽くせば、主君は騎士に名誉を与える。それが主従のあるべき姿。

 しかし今のそちは何じゃ? ただ一方的に忠義忠義と言って、その忠義を尽くす相手は何をしておる! いたずらに生き永らえ、忠義を尽くす者たちを苦しめているだけではないか!

 そちが忠義を尽くすべき国はもうない!

 そして、国無くば王もまた無い!

 守るべき国も民も無くした王に誓う忠義など、もはや忠義とは呼ばぬ!


 ただの感傷! 自己満足じゃ!」



「黙れ! それ以上……それ以上俺の……ッ!? ぐ、うぅあァァアッ!?」


 痛みの中、それでもアスラルはその怒りに任せてパナヴィアに手を伸ばす。

 だが、その手がパナヴィアの細い首に届くことは無く、代わりに伸ばした腕の筋肉が引きちぎられてゆくかのような激痛が走る。

「ふん、いい気味じゃ。忠義の意味もまるで分かっておらぬ半人前騎士には似合いの姿ではないか。そのくせ妾に対して偉そうに説教なんぞ垂れおって……!

 妾の心を、散々掻き乱しおって!」


 余りの苦しみにガクリと膝を折ったところに、アスラルの肩口に鋭い蹴りが叩き込まれた。

 苦悶の声を上げることもできずに、アスラルはその勢いに任せて倒れこむ。


「阿呆が! 阿呆が、阿呆が! なぜ分からぬ!? なぜそこまで不幸にしがみつく!? 妾は……妾ならそちを……ッ!」


 倒れたアスラルに追い討ちをかけるように、パナヴィアはアスラルの体をこれでもかと踏みつけてくる。

 だが、その蹴りは所詮小柄な少女の繰り出すもので、全身を切り裂くような呪いの苦痛に比べれば、まるで子供がじゃれ付いているように感じられた。


「もうよい! もう知らん、勝手にせい! 近衛など、妾が勝手にくれてやっただけのものじゃ! 要らぬというなら、ならんで結構! じゃが、もうそちはペットでもなんでもない!

 飼い主の言うことを聞かぬペットなど要らん! どこへなりと……っ! どこでも、好きに行け! 行ってしまえ!」


 とどめとばかりにアスラルの肩をドン、と踏みつけた、その拍子だった。

「ぅわっ!? わ、わぁっ!?」

 踏み込み方が悪かったのか、肩の上をズルリと足が滑ってしまう。そしてそのまま、パナヴィアの小さな体はアスラルの上に覆いかぶさるようにして倒れてしまった。

「パナヴィア!?」

 未だ全身を蝕む苦痛を無理矢理押しのけて体を捻り、アスラルは倒れるパナヴィアをしっかりと受け止める。

 とすん、と。

 予想外に小さい衝撃と共に、アスラルの胸に小さな体がすっぽりと収まった。勢い任せにさんざん蹴り付けたせいか、ぜえぜえと荒い呼吸が聞こえる。

 その呼吸の音を聞くごとに、アスラルの体から痛みが引いていった。

 それが、アスラルの心からパナヴィアへの怒りが引いていったせいなのか。

 それとも、また別の理由があったのか、それを知ることはできなかった。


「なぜ……なぜじゃ、阿呆……阿呆、あほうぅ……」


 だが、アスラルの胸の中にすっぽりと納まり、倒れた格好のままぽかぽかと力無く拳を振り下ろし続ける少女を相手に、一体どれほどの怒りをぶつけられるというのだろう。

(俺は、お前のペットじゃ、なかったのか? これじゃあまるで……)

 その続きを考えることは、しなかった。

 倒れたまま。パナヴィアを胸に抱き入れるような姿のまま。

 ただ黙って、彼女の気の済むようにさせてやるほかなかった。


 痛みはとうに引いていた。

 しかし、パナヴィアを抱き入れている、この胸。

 そこにジワリと広がってゆく生温い湿り気と、その奥に生まれた痛みとも疼きとも言えぬ、何か。

 それに耐えることが、ただただ辛く感じられて仕方がなかった。



 ……それから数日の後。

 アスラルは、パナヴィアの屋敷を出て行くことが決まったのだった。

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