インテルメディオ ~リスティーナ~

 不思議なこともあるものだ、とリースは思った。


 メリカール王城の一室に軟禁されてから、いったいどれくらい経ったのか忘れてしまったが、ここを訪ねてくるときのカリウスの表情は、いっそ見飽きるほどに同じだった。

 冷静さを装い紳士然と振舞っているが、その瞳の奥にはいつもドロドロとした情念の色がありありと浮かんでいる。

 その色に違うことなく、挨拶もそこそこに強引に唇を奪い、体中を弄り、半ば無理矢理にリースを寝台へと放り込む。

 そして気の済むまで……いや、この男に気が済むということがあるのかと思うほどに、自分勝手な欲望をリースの全身に刻み込んでゆくのだ。


 拒む権利は、あった。

 しかし、リースにはできなかった。


 もし拒めば、メリカールの二等市民として生かされている祖国エストリアの民が全員奴隷にされてしまう。

 男は強制労働か、闘技場での見世物に。女は娼館に、子供は見知らぬ国へ売り飛ばすと言われたのだ。

 そしてもし、リースが自害すれば、誇り高い王女殿下に倣ってエストリアの民も同じ道を辿ることになる……と。

 リースが祖国の民を愛しており、そしてまた民から愛されていた王女であることを知った上で、敢えて選ばせたのだ。

 リース自身の意志で、カリウスの愛妾となることを、選ばされたのだ。

 それが、メリカール王子カリウスという男であった。



 しかし今夜の彼は何かおかしかった。

 ろくに挨拶もしないのはいつものことだが、奇妙な表情でリースを見つめたカリウスは、そのまま独りベッドに腰掛け、大きな溜息を零す。

「……どうか、なさったのですか?」

 沈痛、といえばいいのだろうか。

 思い悩んだような、それでいて哀れむような、なんとも言い難い表情を浮かべていた。

 そこに芝居がかったものを感じなくもないが、それ以上に「こんな顔もするのか」という物珍しさのほうが勝ってしまった。

「お顔の色が優れないようですが、何かお悩み事でしょうか?」

 我ながらバカだなと思わなくもない。憎い男の容態を気遣うなんて、どうかしている。むしろそのまま心労が祟って寝込んでしまえ、くらい思ってもいいだろうに。

 けれどこうして目の前で明らかに弱った様子を見せられてしまうと、そうも言えなくなってしまう。


「ん……ああ、リスティーナ。いや、なんでも……いいや、あるのだが……。ああ、余はどうすればいいのだ」

「どう……と申されましても。もし差し障りが無いことでしたら、仰ってしまってはいかがですか? わたくしが聞いて、どうなるものでもないと思いますが」

「いや、どうなるものなのだ、リスティーナ。これはお前に関係のあることなのだから」

「……わたくしに? それはどういったことなのでしょう?」

 随分と勿体つけるなと思いつつも、リースはそう聞き返す。

 すると、待ってましたとばかりにカリウスは顔を上げると、やはり多分に芝居がかった調子で大仰に首を振る。

「ああ、神の気まぐれとは時になんとも残酷なものだ。それとも、これが生命と誕生を司るエルカーサの祝福というものなのか」

「エルカーサ様の……? 一体、なんだというのですか?」


 エルカーサの気まぐれ。

 そして、自分に関係のあること。


 そう聞いて一瞬、リースの背筋に冷たいものが走った。

 同時に腹の底が……下腹部の辺りに、どうしようもないほどに気持ちの悪い何かが脈打つ。

 まさか。

 いや、考えたくも無いが、考えずにはいられない。

 不本意なことだが、ここに連れて来られてから今日まで重ねた不愉快な逢瀬の回数は、両手の指では足りないほどだ。

 であるならば、そのような過ちが。

 自分の腹の中に、祖国を滅ぼした憎い相手の子が宿っているという可能性を考えずにはいられない。

 だとするならば、カリウスの言うように神の気まぐれとはなんと残酷なことなのだろう。

 だが、そんなリースの恐怖は、思いもよらぬ言葉で否定されることとなった。


「レイフォード卿の消息が、掴めたのだ」


 一瞬、目の前の男が何を言ったのか、リースには理解できなかった。

 予想だにしなかった名前が、予想だにしなかった者の口から告げられた事実に、リースの頭は僅かにその動きを止めてしまう。

「……アスラル、が……?」

 それを確かめようとする本能の行動か、リースの口は半ば勝手にそう動いていた。

「ああ、その通りだ。エストリア随一の剣豪にしてリスティーナ、お前に最も忠誠心厚い騎士のことだ」


 胸が高鳴るのを感じた。


 祖国エストリアが滅んで以来ずっと消息の掴めなかったアスラルの名を、まさかこんなところで聞くことができるなんて。

 それがたとえ憎い男の口からだったとしても、いつかまた巡り会えることを夢見ていた相手の名前を聞くのが、こんなにも心躍るものだったとは。

 しかし次の瞬間、それはまたしても予想外の言葉がリースの期待を打ち砕いた。


「あの誇り高いエストリアの騎士が、まさかルーセシア軍に加わっているとは、まったくもって信じられないことだ」


 ルーセシア。

 小国とはいえ、仮にも王女であったリースだ。他国の名前くらいは幾つか聞き及んでいる。その中でもルーセシアは、大国メリカールと並んで悪名高い国であった。

 ラスカーナ地方の南端にあるモルカウ山を越えたところに位置する国。国土はエストリアよりも僅かに広いくらいの、本来ならば取るに足らない小国であるはずの、国。

 しかし、ただ一点。

 血染めの魔女と呼ばれる女王が人外の者たちを率い、数多の神々に仇成す妖魔悪鬼の国であるという点が、ルーセシアの名を大陸中に知らしめていた。

 そこに、アスラルがいるというのか。


「レイフォード卿の気持ちも分からなくもない。余のメリカールは、いわば祖国の仇。命辛々落ち延びた先で新たな主に仕え、復讐を果たさんと思うのも合点がいかぬわけではない。

 だが、腑に落ちぬのは何ゆえルーセシアなのか。エストリア王女の護衛騎士に抜擢されるほどであれば、さぞ信仰心厚い男であったはず。それがよりにもよってルーセシアとは……。レイフォード卿は、悪魔に魂を売ってしまったのであろうか」


「そんなはずはありません! アスラルがそのようなこと!」


 半ば絶叫に近い叫び声に驚いたのは、他ならぬリース自身だった。

 こんなにも大声を出したのは、一体いつ以来だろうか。


 対してカリウスは先ほどと変わらぬ……いいや、もしここが陽の光の差す場所であったのならば、その口元に歪んだ笑みが浮かんだことがハッキリと分かったはずだ。

 だが夜も更け、リースの座る小さな化粧台から程なく離れたベッドに腰掛けるカリウスの表情は薄暗く、その変化を窺い知ることはリースにはできなかった。

「ああ、余もそう思いたい。エストリア一の騎士が魔道に堕ちたなどと、考えられぬ」


 普段なら気付けたかもしれない。

 まるで呼吸をするかのように他者を蔑むこの男が、本心からリースを哀れみ、そのリースに仕えていた騎士の身を案じることなど、悪魔が慈悲を説くよりもあり得ないことなのだということに。

 しかし、ずっと再会を願っていた相手が、まさか悪魔の軍勢に加わっていたという事実に困惑した今のリースには、冷静な判断など望むべくも無いことであった。

「余は思うのだ。もしかしたらレイフォード卿は、何か呪いを掛けられているのではないだろうか。本人の意思とは関わり無く戦わされている……いいや、もしかしたら本人の意思などすでに無いのかもしれぬ。何せあのルーセシアだ、レイフォード卿の自由を奪い、意のままに操る術を掛けていたとしても、何ら不思議はない」

 当てずっぽうというか、いかにしてルーセシアを貶めようかというカリウスの言葉が、当たらずとも遠からずというのは皮肉なものであった。

 だがその事実がどうあれ、リースの心を掻き乱し、冷静な思考を鈍らせるというカリウスの目的は、十二分に果たされた。

 ましてやリースは、アスラルに対して主君と騎士以上の感情を抱いているのだ。

 愛する男が悪魔に魂を売り渡し、復讐の鬼に成り果てた原因が自分であると思い至るのに、それほど時間は掛からなかった。


「だが悲しむことはない。リスティーナよ、お前がこうしてここにいるのもまた、神の思し召しだとは思わぬか?」


 そう、リースが自らの罪に苛まれてゆくのを、十分に。

 十二分に眺めてから、カリウスはゆっくりと切り出した。


「わたくしが、ここに……?」

「そうだ。自分で言うのも気が引けるが、余はお前の祖国の仇だ。戦争ゆえ仕方のないこととはいえ、余はお前の国を滅ぼした、憎い仇であろう。その男の愛妾めかけとなってまで生き延びてきたのは、このときのためだったのではなかろうか」

 まるでリースの思いを代弁するかのように紡がれるカリウスの言葉は、さながら悪魔の囁きだった。

 冷静な思考を失った今のリースが求めるものは救いであり、赦しだ。

 それはつまり、自らの境遇を正当化する理由と言い換えることができる。

 それをリースが自らの意思で導き出す前に、さも理解者であるふうを装って都合のいい理由を刷り込むカリウスの手腕は、さすがは蛇蝎のごとく狡猾な王子と評されることはあるものだった。


「そうだリスティーナよ、そうではないか。お前が生きている理由は、まさにそうではないか。レイフォード卿を悪魔の呪縛から解き放ち、再び会いまみえるそのためではないか」

「わたくしが……アスラルを……?」

「そうだとも。お前は今も、レイフォード卿の仕えるべき主ではないか。……いいや」

 ニィ、と。まるで耳まで裂けるのではないか、と思うほどに歪められたカリウスの口から、極上の美酒のごとき誘惑が零れ落ちる。


「もはやお前はエストリアの王女ではない。ただの一人の女だ。

 そしてレイフォード卿もまた祖国を失った、一人の男。

 そうではないか、今のお前たちには身分の壁など無い、ただの女と男ではないか。そうなればリスティーナよ、もう余がお前を縛り付けるわけにはいかぬ。

 もしレイフォード卿を……いや、アスラルを救い出すことができたならば、その暁にはお前を余の愛妾から解放しようではないか。そしてアスラルと共に、我が国の一市民として幸せに暮らすがよい。

 いくら大国メリカールの王子とはいえ、愛し合う男女を目の前で引き裂くほど、余も鬼ではない」


「本当に……? 本当でございますか、殿下!?」

「勿論だ、余に二言は無い」


 そう、二言は無い。

 メリカール国民には有事の際に徴兵の義務があること。

 その有事とは、大陸統一を掲げ各地に侵略戦争を仕掛けているまさに今このときであり、カリウスの命令ひとつでアスラルを再び戦場へ送り出すことなど造作も無いこと。

 そして、どこかの戦場で亡き者となったアスラルの代わりに、未亡人となったリースを正式に寵姫ちょうきとして囲うことになったとしても、それは〝二言〟ではないこと。


 元々人の良いリースだ、たとえ普段であってもそこまで考えが巡っていたかどうかは怪しいものだ。

 ましてや今のリースは、アスラルを救うという『押し付けられた使命感』で頭が一杯になってしまっていた。そんな状態では、カリウスの狙いを見抜くなど不可能に近い。

「けれど、わたくし呪術の心得などありませんわ。一体、どのようにして……?」

「案ずることはない。こういう類のものは、愛する者の強い想いで解けるものと昔から相場が決まっておる。近々、余が直々に軍を率いてルーセシアへと攻め入ることになっておる。そのときに、お前も同行するがよい。そしてもし戦場でレイフォード卿を見つけたら、想いの限り叫ぶのだ。自分のところへ戻れ、と」

「……それだけ、でございますか?」

「それ以外にどのような方法があろう? あるいは術者を殺し、掛けられた呪いを解くということも考えられるが、まさか術者自らがのこのこ戦場に出てくるような愚を冒すとは思えぬのだが」

「ええ、それは……そう、思います。けれど……」

「無論、これは強制ではない、あくまで提案だ。お前が来ぬというのならそれはそれで仕方あるまい。だが、そうなればレイフォード卿は我らにとってただの敵……神を冒涜する妖魔悪鬼どもの尖兵に成り果てた、人間の恥晒しでしかない。ならば余も遠慮はできん、大切な我が軍の兵たちを一人でも多く生き延びさせるため、レイフォード卿を討ち取ることになるだろう」

「そんな!? そんなこと……っ!?」

 そんな残酷なことを。そう叫びそうになる言葉をリースはグッと飲み込む。

 なにが残酷なものか。アスラル一人を助けるため、何十何百というメリカール軍の兵を犠牲にしてくれというほうが、何倍も残酷ではないか。

 たとえ憎い敵国の兵隊だったとしても、彼らにも家族があり、恋人があるのだろうから。


 ……などということに気を回してしまえるのがリースという少女であり、そんな彼女の甘さと紙一重の優しさをカリウスはよく理解していた。

「……分かりました。アスラルのこと、わたくしにお任せ頂きとうございます」

「おお、まことか。いやいや、よかった。レイフォード卿を斬ることになったとあれば、お前がどれほど悲しむことかと思っていたのだ」

 そう言ってカリウスはベッドから立ち上がると、化粧台に腰掛けるリースのもとへと歩み寄った。


「あ……っ!?」

「リスティーナ、お前はいい女だ。そこまで深く一人の男を愛する、本当にいい女だ」


 カリウスの手が、リースの体を這い回る。

 おぞましい感触だった。けれどリースは耐えることしかできなかった。


 ……いや。


(アスラル……あなたにもう一度会えるのなら、わたくしは……)


 耐える、という感覚が、薄れてゆく。

 思考が、停止する。

 押し付けられた目的が、リースの中の真実を上乗きしてゆく。

 エストリアの民が平穏でいられるため、屈辱を忍んできた日々。

 それが報われるときが来たのだ……と。


 ――もうすぐ、王女でなくても、よくなるのだ……と。


(お許しくださいエルカーサ様……。アスラルに逢いたいがため、罪を重ねる愚かなわたくしを、どうかお許しください……)


 信仰する神の名を繰り返し呼びながら、リースは感情を、心を、静かに閉じてゆく。

 腰を抱かれ、立ち上がらされる。

 そして寝台へと連れて行かれ、突き飛ばされるようにベッドへと倒れこんだところで、


 カチン……と。


 心の扉に、鍵が掛かる音が、聞こえたような気がした。

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