第30話 暗愚の王
ルーセシア国境線の砦が陥落して、もうすぐ7日が経とうとしていた。
三方を山に、残る一方を海に囲まれている天然の要塞であるルーセシアは、その防衛力ゆえに農地に割ける面積が少ないという弱点があった。
ゆえに、北の山を越えた平地に畑を拓き、牧場を作って食料をまかなってきたのだ。
つまり、国境の砦さえ落としてしまえば、あとは遮るものの無い平地が続くのみで、一気にルーセシア制圧へと王手を掛けられる。
……はずであった。
だが、現実はまるで逆であった。
意気揚々と砦を制圧したメリカール軍だったが、そこへパナヴィア率いるルーセシア軍5千が強襲を仕掛けたのだ。
攻城戦で幾分か数は減ったものの、それでも10万対5千、さらには防衛戦なのだ。
どう考えても結果は見えている。
しかしルーセシア軍の強襲は1回では飽き足らず、2回3回と無謀な攻勢を繰り返し、そのつどメリカール軍の反撃に遭い敗走していった。
度重なる勝利にメリカール軍の戦意は否応無く向上し、総大将であるカリウスもまた、ルーセシア恐れるに足らずと勝利を確信していた。
余りにも呆気ない連勝に酔いしれたメリカール軍は、景気付けとばかりに大量の食料が連日振舞われ、カリウスもまた戦場とは思えないほどの食事に毎晩舌鼓を打っていた。
異変が起きたのは7日目の朝であった。
本国から輸送されてくる武具や兵糧の到着を待って、いよいよルーセシアへ攻撃を仕掛けようとしていたというのに、その予定していたはずの物資がいつまで経っても届かないのである。
もしかしたらこれはルーセシアの策略ではないか。
カリウスの脳裏にそんな予感が走ったときには、すでに手遅れであった。
メリカール輸送部隊が突然の奇襲を受け、本国への帰還を余儀なくされたという報告がカリウスの下へと飛び込んできたのだ。
しかもそれだけではなく、敗走中の輸送部隊にどういうわけか次々に野盗や山賊が襲いかかり、運搬予定の物資の殆どを奪われてしまったというのだ。
謀られた。
そう感じたカリウスは、すぐさま全軍総攻撃を命じた。
広い平地での総力戦なら、数の多いメリカール軍に分がある。
兵力差は実に20倍。一気に数で押し切り、そのままルーセシアを制圧してしまえば食料の問題など関係無くなる。
確かにそれは理屈の通った話ではあるし、兵法の面から見ても決して間違ってはいない。
だが、カリウスは甘く見ていた。
なぜルーセシアが妖魔悪鬼の国としてその名を轟かせているのかを。
なぜパナヴィアが魔女と呼ばれるほどに恐れられているのかを。
地の利を活かせるのは、なにもメリカール軍だけではない。
ルーセシア軍には、馬よりも速く野を駆ける
しかも、彼らは非常に組織だった用兵で戦場を縦横無尽に動き回り、メリカール軍を翻弄した。
当然だ。パナヴィアの言葉を借りるなら、彼らは化物などではなく、普通よりも背が高かったり、速く走れたりするだけの、人間なのだから。
しかしそれに気付かない……いいや、気付けないメリカール軍は、まるで獣狩りでもするかのようにルーセシア軍へと襲い掛かり、その度に人狼の爪に喉を引き裂かれ、オーガの拳に頭を潰され、トロールの巨体に蹴散らされた。
それらを掻い潜り、なんとか総大将のパナヴィアへと肉薄した者たちは、その余りにも幼く可憐な容姿に戸惑った一瞬のうちに、彼女の振るう漆黒の長槍が巻き起こす血の竜巻に飲み込まれていったのだった。
全軍投入したがゆえに機動力を欠いたメリカール軍は、たった一度の交戦で7千余もの死者を出し、その倍以上の重軽傷者を抱えて砦へ退却することとなったのである。
そして、そこでカリウスは思い知らされた。
敗戦の汚辱……血と泥と膿に塗れた、敗残兵たちの生み出す強烈な悪臭を。
だが、それも無理からぬ話だ。
ルーセシアの国境線砦は、せいぜい3千、どれだけ詰め込んでもルーセシア全軍1万を収容すれば、それこそ足の踏み場も無くなる程度の規模なのだ。
そこにメリカール軍9万が一気に押しかければ、あっという間に飽和状態になるのは目に見えている。
勝ち戦のときは、砦の外で夜明かしする兵も何の不平も漏らさなかったが、いざ大負けして帰還、しかし砦の中には入れず満足な治療も受けられないとあっては、不平不満が次々に溢れ出す。
しかも悪いことに、メリカール軍10万といえども、それは見かけ倒しであったのだ。
正規兵は2万そこらで、残りはすべてアスラルのような奴隷や敗戦国の人間を徴兵した、寄せ集めの軍なのである。
いくら大国家であるメリカールとはいえ、のべ5万もの人員を動員しての敗戦の直後に正規兵10万も動かすことはできない。
そういった彼らは真っ先に砦の外に弾かれる者たちであり、今まで押し込めてきた不満が噴出すきっかけとしては十分すぎた。
結果、高まった戦意はそっくりそのまま逆転し、ルーセシア前線砦を落としたはずのメリカール軍は一転して、本国から遠く離れた砦に取り残された、孤立無援の軍に成り果ててしまったのである。
「殿下、ここは些か分が悪うございます。撤退を……」
「ならぬ」
「しかし、兵の不満も抑え切れません。このような状態では、満足に戦うことなど」
「ならばこうすればよい。不平を漏らす者は見せしめに処刑せよ。敵から逃げようとする腰抜けには矢を射掛けよ。そうすれば奴らは死に物狂いで戦うであろう」
「それでは徒に兵力を消耗するだけでございます。本国防衛となればまた話は違いましょうが、たかだか砦のひとつ、それも敵国のものを守るのに、そこまでする必要は……」
「くどい! 撤退は無い! ルーセシアの妖魔悪鬼どもを撲滅し、メリカールの栄光をあまねく広めるまで、退却など許さぬ!」
ガン! と樫のテーブルを叩き、カリウスは退却を進言する諸将を怒鳴り散らした。
いいや、カリウス自身、分かっていた。
彼らの言っていることは正しい。こうなっては一度撤退し、体勢を立て直してから再び戦を仕掛けるしかない、と。
だが、それはすなわち自らの命を失うことと同義なのだ。
あのメリカール王が、戦果のみを以て他者を評価する冷酷な父王が、実に三度にもわたる敗戦を重ねた愚か者にこれ以上の慈悲を掛けてくれるなど、到底考えられない。
そんな事情など知らぬだろう……いや、仮に知っていたとしてもこんなジリ貧の戦いで死ぬなど御免だと思う諸将にとって、なおも徹底抗戦を掲げるカリウスの姿は、まるで駄々っ子のように思えたことだろう。
だが、なんと思われようとカリウスは引くわけにはいかなかった。
それにカリウスには、この戦が始まる前までは勝ちの目が十分にあったのだ。
アスラルという、なんでもいうことを聞く犬がいたはずなのだから。
しかしその期待とは裏腹に、戦場でアスラルの姿を見かけたという報告は一向に来なかった。
念には念をと、連れてきたリースを城壁に登らせて戦場を探させたりもしたが、リースは首を振るばかりであった。
それどころか、異形の化物たちに次々蹂躙されてゆく兵たちを見て気分が悪くなったのか、今は自室で臥せっている。
そんな状態では満足に夜の相手をさせることもできず、これでは何のためにリースを連れてきたのか分かったものではない。
苛立ちは焦りを呼び、焦りは冷静な判断力を鈍らせる。
……いいや、負けたら極刑という最後通知を下された時点で、すでにカリウスは冷静な判断力など失っていたも同然だったのかもしれない。
「もうよい、埒が明かぬ! 明日、もう一度ルーセシアを攻める。今度は陣を広く展開して敵を包囲するのだ。目障りな犬どもを好き勝手に動き回らせる隙を与えるな」
「恐れながら。それでは中央の守りが薄くなり、敵の突破を許すことに……」
「愚か者が! 敵は5千であろう!? たった5千の敵にぶつかられた程度で破られるほど、我が軍の兵は軟弱者揃いだというのか!?」
「そうではなく、敵が異常なのだと申し上げて……」
「言い訳は聞き飽きた! 百の矢で倒れぬならば千射掛けよ! 馬でも追いつけぬというなら襲ってきたところを兵にしがみつかせてでもその足を止めよ! その程度のこともできぬ惰弱な兵など、我が軍には要らぬ!」
もはや癇癪持ちの子供よりも手に負えぬ。誰もがそう諦めかけた、そのときであった。
ゴンゴン、と。
仮にも王子の滞在する部屋を訪ねるには不躾な音のノックが聞こえた。
「誰だ!?」
苛立ちを十分に込めたカリウスの言葉に、応える声は無い。
ドアの傍に控えていた兵に顎で合図し、扉を開けさせる。
するとそこには、醜い顔をした一人の男が立っていた。
いや、違う。醜いのではない。
恐らくは顎を砕かれたのか、顔の下半分に赤黒い腫れをこさえたせいで、造形のバランスが崩れてしまったのだろう。
「何者だ!? 誰に断ってここまで来た!? いや、そもそも誰だ、こんな怪しい者をここまで通したのは!?」
カリウスの怒声に男は驚いたように目を見開き、否定の意を示すべく首を振る。それが砕けた顎に響いたのだろう、男は痛みで蹲ってしまった。
その姿は哀れというか滑稽で、そんな相手を怒鳴るのはかえって愚かであるとカリウスに思わせるには十分であった。
「……フン、もうよい。それで、そやつは何者だ? 何の用で来たか訊け」
カリウスの言葉に、傍に控えていた兵が男を抱え、立ち上がらせる。すると男は、その兵に薄汚い小さな紙切れを一枚手渡した。
訝しげにしていた兵だったが、その紙切れを見るや、見る間に表情を変化させる。驚愕とも困惑ともつかにその顔に眉を顰めていたカリウスだったが、手渡された薄汚い紙切れに目を通すやいなや、その兵と同じように表情を一変させた。
「……くくく……ッ! ははっ、そうか! そうかそうか、そうであったか! っはっはっはっはっは!」
突然哂い出したカリウスに、諸将は揃って首を傾げる。
「皆の者、余計な気を揉ませたな。だがもう心配は要らぬ。必勝の策は成った! この戦、余の勝ちである!」
まるで耳まで裂けてゆくのではないかと思われるほどに口の端を吊り上げて笑うカリウスに、諸将は「おお」と同意の相槌を打ちつつも、内心から沸き起こる生理的な嫌悪感を顔に出さぬよう努めた。
そんな諸将の心情など知るよしも無く、カリウスはそう遠くない未来に訪れる勝利の幻に、独り酔いしれるのであった。
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