第40話 2人の女王
突如として戦場に突き刺さった、透き通るような声。
それはパナヴィアの、今まさに踏み込もうとした足を止めさせるには十分過ぎるほどのものであった。
……そう。自身ではもはや、止めることはできない。
しかし、外から横槍が入ったとなれば、その一撃は〝止めざるを得ない〟のだ。
まさに天恵。
本来なら一騎打ちの最中に横槍を入れるなど無礼以外のなにものでもないのだが、このときばかりはパナヴィアにとってそれはまさに天の恵みそのものであった。
まさか本当に神への祈りが通じたとでもいうのだろうか。
「……リース、さま……?」
そんなパナヴィアの疑問は、他ならぬ目の前にいるアスラルによって解き明かされることになった。
呆然と、だらしないと思えるほどポカンと口を開け、まるで信じられないものでも見たといったふうに砦のほうを見つめている。
その視線の先をパナヴィアも追い、そして。
ドキリ、と。
自分の心臓が、大きく高鳴るのを感じた。
一瞬、本当に天使が舞い降りたのかと勘違いしてしまうほどだった。
それはきっと、周囲に群がる憎いメリカール兵と比較してしまったことによるコントラストがそう見せた錯覚なのだろう。
だが錯覚だとしても、その少女の放つ美しさはパナヴィアの目を引いて離さなかった。
金色の長い髪が風に靡くたび、キラキラと光の粒が彼女の周囲で踊る。
一見すると簡素に見える純白のドレスは、それゆえに彼女の素の魅力を引き立たせるかのようだった。
同じ白でもこうも違うものかと、パナヴィアの心にある種の場違いな思いが過ぎった。
パナヴィアの戦装束は敵の目を集め、さらに返り血や土埃を敢えて目立たせることによって見る者の戦意を削ぐことが目的だ。
けれどあの少女のドレスの白は、彼女の清楚さや可憐さ、そして天使と見紛わせる神秘性を引き出しているかのようだ。
なぜ。どうしてこんなときに、こんな余計なことを考えてしまうのか。
そんなパナヴィアの疑問に答える者は無かった。
「なにをしているのですか、アスラル! あなたの剣は、いつからそのような惰弱なものに成り下がったのです!? わたくしに捧げたと言っていたのは、そんな生半可なものではなかったでしょう!?」
代わりに、凛とした声が再び戦場に響き渡る。
恐らく歌曲だろうか。
素人のパナヴィアであっても、相当上質な指導を受けてきたのだろうものだろうことが分かる、すぅ……と、よく通る声だった。
……それでようやく、気付いた。
あの少女は、本物の『お姫様』なんだと。
生まれたときからずっと蝶よ花よと可愛がられ、品位だの教養だの芸術だのと、生きるために必要の無いことを学ぶことのできた、ただのお姫様なのだと。
そして。
クロスが……アスラル=レイフォードがルーセシアの、自分の騎士にならぬと言った、最大の理由なのだと。
そう思った瞬間、パナヴィアの腹の底から〝何か〟が湧き上がってくるのを感じた。
何をたわけたことを。
クロスの剣が惰弱だと? 貴様の目は節穴か。
この剣のひとつひとつにどれだけの想いが込められているか知りもしないでよく言う。
……けれど。
そう叫んでやりたい思いは、喉の奥で引っかかった。
「エストリア王女として、わたくしの騎士に命じます! アスラル=レイフォード、その剣で、わたくしたちの敵を討つのです!」
声が、変わったのだ。
いや、違う。変わったのは声ではない。
パナヴィアの、耳が。
あの少女の中に……ただのお姫様の中にある。
「祖国の仇を! カリウスを討ちなさい!」
自分と同じ、女王の声を、聞いたから。
そして。
パナヴィアの、目が。
王子のフリをした愚か者の持つ刃が、その女王めがけて振り下ろされるのを。
その刃を、一片の恐怖も無く、真正面から見据える、
誇り高い女王の姿を。
……見てしまったから。
一瞬。
すべての音が消えたかのようだった。
戦場ほど沈黙の似合わぬ場所は無い。
怒号と、剣戟と、断末魔の声が引っ切り無しに飛び交うところだ。
しかしそれは生の証だ。
生きようともがき、戦うことで自らの生を掴み取ろうとする、生者の泣き声だ。
だというのに。
少女の白いドレスから、パッと。
まるでバラが咲いたかのような眩いほどの赤が舞ったその光景は、それらすべてを掻き消してしまうほどに、鮮烈であった。
「全軍! 突撃じゃぁっ! 我らの敵、カリウスを討てぇッ!!」
だから、パナヴィアは叫んだ。
豪雨のごとく降り注ぐ静寂を撥ね退けようと。
あの少女の歌うような美しい声とは比べようも無い、喉も潰れよと言わんばかりの声で叫んだ。
再び、戦場に音が戻る。
ルーセシア兵の巨躯が巻き起こす地を揺るがすほどの足音と、天をつんざく雄叫びが戦場に戻ってきた。
……はず、なのに。
ど……っ、と。
兵たちと比べればまるで子供のようなアスラルが膝から崩れ落ちたその音が、嫌になるほど耳に残って、ならなかった。
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