第29話 悪魔の取引
不慣れな町を歩き、荷車に積んだ商品を市場に届け終えた頃には、すっかり日が傾いてしまっていた。
念のためにと孤児院に顔を出してみたが、そこではブスッと不機嫌そうな、それでいてどこか見下しているような表情でアスラルを待つハリィがいた。
「ペットがあんまりにも
などと一方的な物言いに、しかしアスラルは苦笑交じりに了承して、孤児院を後にした。
元々そのつもりだったし、必要とあれば2、3人はおぶって行く心づもりもある。
それに、山を越えてアスラルの家まで辿りつけば、あとはこの荷車を使えばいいのだ。
陣中見舞いの食べ物と、体力の少ない子を5、6人乗せたとしても、アスラルならば国境まで歩ききる自信はあった。
しかし、心配が無いわけではない。
砦が落とされたということは、山むこうは戦場も同然だ。
いくらルーセシア領内とはいえ、逃げ出したメリカールの敗残兵と鉢合わせ、子供たちを危険に晒す可能性が無いとは言い切れない。
だが、守るためとはいえ出来る限り子供たちに血を見せることは避けたい。となれば、近くの農家から長めの角材を数本持っていくのがいいだろう。
いつも振り回している
(けど、もし敵が
そんなことを考えながら山を越え、まだ住み慣れぬ家に辿り着いたときには、もう殆ど日が沈みかけていた。
さて、荷車を片付けたらさっそく角材を貰いに行きたいところだが、こんな時間に訪ねて迷惑にはならないだろうか……と。
そんなことを考えながら、荷車を置きに家の裏手へと回ろうとした、そのときだった。
不意に、首筋を毛虫が這い回るような、不快な視線を感じた。
「誰だ?」
一瞬で全身に緊張を走らせて不快感の発信源へと目をやる。
するとそこには、夕暮れの闇と、家の影。そのふたつに紛れて立つ、一人の男の姿があった。
「アスラルってのは、アンタだね?」
暗がりのせいで、顔だちが判別しづらいという理由も、もちろんある。
しかしその男は〝一人の男〟という以外にどう表現すればいいのかすぐに思いつかない、取り立てた特徴の無い容貌をしていた。
恐らくは30代半ばという歳の頃だろうが、老け顔の10代だと言われたらそれで納得してしまいそうだし、若作りの50歳だと言われてもそうかな、と思ってしまう、そんな男だった。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
「……メリカールの
このルーセシアで、アスラルのことを『アスラル』と呼ぶ者は、一人としていない。
パナヴィアに告げた名前はクロス=クレイモアで、屋敷の者は勿論、先の一戦で共に戦った兵隊たちにも、孤児院の子供たちにもすべてその名前で認識されている。
ペットやら犬やら、ときには豚だのと呼びつけられることはあるが、それでもアスラルなどと呼ばれたことは一度として無かった。
なにより、その男の視線から感じる不快感は、嫌な意味で忘れようもない男の雰囲気にどこか似ているように感じたからだ。
以前、パナヴィアと交わした会話が思い出される。
メリカール軍は、なぜこうもルーセシアの嫌がる時期を狙って派兵できるのか。
それは、この国にメリカールの密偵が紛れ込んでいるからだ……と。
「察しがいいのは助かるよ。まったく、随分と手間を掛けさせてくれたな? 魔女の兵隊になったって聞いたから、どうにか屋敷の中に入り込もうとしてたってのに、なんだってこんなところにいるんだい? オレの苦労を返してくれよ」
「……何の用だ? 世間話をしに来たワケでもないだろう? それとも、ルーセシアの情報でも聞き出そうって腹積もりか?」
「それこそ冗談だ。そっちはオレらの仕事で、それを取られちゃ商売あがったりよ。アンタにはアンタにしかできないことがある、それをやってくれりゃいいだけさ」
アスラルの言葉に肩を竦めてニヤニヤと笑う男の顔は、やはりどう形容すれば分からない特徴の無いものだったが、少なくとも好意的な印象だけは受けられそうもなかった。
「悪いけど、なんの話だかさっぱりだ。敗残兵ごときにできることなんてたかが知れてるし、そもそも俺を見捨てたのはお前たちだろう? そんな相手に今さら尽くしてやる義理も無い、帰ってくれ」
「まあ、そう邪険にしなさんな。確かに、剣奴隊の敗残兵にゃ用は無ェさ。けど、エストリアの騎士様には、ちょいとイイ知らせがあってね」
男の言葉に、アスラルは息を呑んだ。
これでもメリカールにいたときは闘技場で一番人気の剣闘奴隷だったのだ、それなりに顔が売れているという自覚はある。
その場で本名を名乗りはしなかったものの、メリカールの間者ならばそのくらい調べればすぐ分かることだろう。
だが、元エストリア騎士であったことまで知られているとなると話は別だ。
「方法は問わない。こいつを、魔女パナヴィアに飲ませろ。アンタなら簡単だろう」
そう言って男が懐から取り出したのは、何の変哲も無い小瓶であった。
しかし、その中に入った液体の正体が何であるのか、想像するのは容易い。
「……屋敷に入り込もうと、と言っていたな? なら、お前も知っているだろう? パナヴィアはそう簡単に殺せるような相手じゃない」
「勿論知ってるさ、あの魔女には同僚が何人も痛い目に遭わされてる。だからオレも屋敷の中には潜めなかった」
「それが分かってるなら、実行不可能な命令だってことくらい察したらどうだ?」
「ああ、そのとおりオレには無理だ。けどアンタならできるだろう? 魔女のお気に入りだったそうじゃないか?」
「それはもう終わって、こうして暇を出されたよ。今の俺はただのルーセシア市民で、屋敷に入ることもできやしないし、戦争にだって付いていけない。事実、メリカールが攻めてきたことだって、つい今しがた知ったところだ」
「そうかい、そりゃ気の毒に。けど、オレとしちゃンなこと知ったことじゃない。オレは命令を伝える、アンタはそれを実行する。それだけさ」
「……話にならないな。無理だと分かってることをやれ、と?」
「ああ、そうさ。アンタはそうする義務がある。
……そうだろう? 元エストリア近衛騎士、アスラル=レイフォード殿?」
もはや決定的だ。
この男はただの間者ではない。メリカール王子、カリウスに通じている者だ。
一体どこで自分が生きていることがカリウスに伝わったのか……と、考えかけて、やめた。
今それを苦悩しても仕方がないことだし、何より一度とはいえ、戦場でパナヴィアと共にあれだけ派手に暴れてしまったのだ。
逃げ延びたメリカール兵が報告した可能性は十分にありえる。
そもそもこの男のような間者からの報告という線も考えられる。
とにかく今確実なのは、アスラルがルーセシアで生きているということが、カリウスの耳に届いてしまったということだ。
「……報酬は?」
「は?」
「報酬は、と訊いたんだ。あの男なら、犬をその気にさせる餌くらい用意するだろう?」
「へへ、引き受ける気になったってことでいいんだな? ああ、勿論あるともさ。アンタにとっちゃ、喉から手が出るほど欲しいモンだろうぜ」
ニヤニヤと口元を歪める男の顔面を殴りつけてやりたい衝動を抑え、アスラルはただ静かに男を見据える。
そんなアスラルの視線に怖気づいたのか、男は僅かに後ずさり、卑屈な笑みを浮かべる。
「おお、怖いねえ。さすがは
再びニヤニヤと、今度は歯が見えるほどに笑ってみせて、男は勿体つけるようにしてゆっくりと口を動かした。
「元エストリアの王女、リスティーナを娶る資格をくださるって話だ。いやあ、羨ましいねえ、戦場で最も手柄を立てた英雄にくださるってぇ話だろう? まあ確かに、毒殺とはいえあの魔女を仕留めたとあれば、その資格は十分だわな」
けど、と続けて。
男はその口元に下卑た色を一杯に浮かべて、憐れむような視線をアスラルに向けた。
「やるなら急いだほうがいいぜ? どういうわけか今回の侵攻にはそのリスティーナ姫が連れてこられてる。万が一にもルーセシアが押して、カリウス殿下に被害が及ぶようなことがあれば、きっと姫君も無事じゃ済まねえだろうな。
それに……っへへへ、戦場の興奮を発散するにゃ、酒と女が一番だ。今頃あの綺麗な体が、カリウス殿下に好き放題されてるかもしれねえなぁ? いいや、むしろ殿下のことだ。もしかしたら兵の士気を上げるためとか言って、あの姫様を兵の慰み者に……」
その瞬間。
まさに、まばたきほどのあいだであった。
ゆうに
それが今や、大の男なら半歩ほどの距離にまで詰まっていた。
「ぐ、ぐぎギ……ッ!? が、あんだ……ッ!?」
「分かった、分かったからもう喋るな。間者は余計なことを喋り過ぎないのが基本だぞ、誰が聞いているか分かったものじゃないからな」
身の丈はある重剣を軽々と振り回すアスラルの手が、男の顎をガッチリと掴んでいたのだ。
「用件は以上か? なら帰ってご主人様に伝えろ、確かにその命令を承ったと」
いや、掴むなどという生易しいものではない。
頬骨に指が食い込み、顎の骨が砕けるのではないかと思うほどの力で握り潰さんとしているかのようだった。
「は、はがッ!? あがぜ……ッ!?」
「ん? どうした、よく聞こえないな? ……ああ、悪い悪い、強く抑えすぎた。重要な話だったものだから、ついつい力が入り過ぎたようだ」
そう言ってアスラルは顎を掴んだまま、男を僅かに宙吊りになるほどに持ち上げる。
そして、その手から毒の入った小瓶を受け取ると、これでもか! といわんばかりに、男を目一杯地面に叩きつけた。
「がフッ!? き、キサ……ま……ッ!?」
「おっと、何度も悪いな、どうも力の加減が下手糞でね。けどお前も悪いんだぞ、大事な報告をそんな大声でするんだからな。誰かに聞かれたら俺もお前もおしまいだ、もう少し気をつけてくれないと」
余りにも唐突に起きた暴力の嵐に狼狽する男を尻目に、アスラルはあくまで淡々と語りかける。
「すまない、痛かったか? そら、手を貸そう。立てるか?」
しかし、その瞳……まるで感情の無い、目の前の相手を人とも思っていないような冷たい瞳に、男は喉まで出掛かった罵声を飲み込んで後ずさった。
差し出されたアスラルの手。
その手をもし掴んでしまえば、そのまま手を握り潰される……いいや、腕を捻じ切られてしまうかのような恐怖が漂ってくるかのようだったからだ。
恐らくはヒビのひとつやふたつ入っているのだろう満足に動かぬ顎を押さえながら、男は逃げるようにその場から立ち去っていったのだった。
その後姿を見ながら、アスラルは僅かな後悔を抱く。
もしあの男がカリウスに、アスラルに反抗の意思がある、と報告をしたら、それだけでリースの身が危なくなってしまうかもしれない。
だが同時に、それは無いな、という考えもあった。
あのカリウスが、たかだか使い捨ての密偵ひとりに何かあったところで、リースをどうこうするとは考えられない。
いや、それどころか仕事ひとつまともにこなせないグズとして、あの男は早々に処分されることになるかもしれない。
そうなってくれれば、アスラルの溜飲も少しは下がるというものだ。
だが、それよりも。
そんなことよりも――
「エルカーサ様……自分に、何をしろと仰るのですか……?」
ほぼ無意識に、信仰する神の名が口をついた。
もしかしたらそれは、こんな生を与えた『生命と誕生を司る神』への抗議だったのかもしれない。
危惧していた事態が起きてしまった。
いや、思えば再び戦場に出てしまったときから、ある程度の覚悟はできていた。
相対した敵のすべてを倒すなんて、できるはずもない。
むしろ、倒した相手よりも逃がした相手のほうが多いのが当たり前で、そうなれば当然、戦場での出来事はつぶさに報告される。
異形の者たちの中に普通の人間の姿をした者が紛れているというだけでも目を引くだろうに、それがこともあろうに総大将のパナヴィアと共に、彼女を守るように戦っていたとなれば、目に付かないことのほうがおかしい。
そして、振るうは双刀の
「なにが、
ぽつり、と呟いた声が空に溶けてゆく。
これが自分の振るいたかった剣か?
リースに立てた誓いの剣は、自らの命を救った者を後ろから掻っ捌くような真似をするために振るわれるのか?
――片手に誓いの剣を持ち、もう片手に裏切りの剣を隠し持つ。
お笑いだ。
それこそまさに、幼い頃に大人の先輩騎士たちから散々言われてきた苦言のままではないか。
そうではない。そのようなことがあってたまるかと、誰よりもリースに相応しい騎士になるべく精進を重ねてきた。
その結果がどうだ。
物珍しさから剣闘奴隷として生かされ、なかなか死なぬ奴隷を処分するために戦場へと放り出され、敵国で生き延びていることが知られると今度は腹の内から食い破れという。
敵の中に味方を作り、内と外から同時に攻めて敵を倒す。
吐き気がしてくる。
祖国エストリアを滅ぼされたときと同じ手口で、今度はルーセシアを滅ぼそうというのか。
他でもない、エストリアの生き残りの、アスラルの手で。
自軍の被害は最小限に、効率よく敵の頭を潰すことで勝利を得る。
結果だけ見ればそれは、パナヴィアの
だが、違う。
カリウスのそれは自らの手を汚すことなく、一方的に敗者を踏み躙るための手段でしかない。
そしてその手駒として選ばれたのが、アスラルなのだ。
――エストリアの騎士として生きることを。
――ただ一人、リースを主とし、それ以外の者に仕えることは無いことを。
……誓った、結果としての、今があるというのならば。
それを、受け入れるしか……。
「それが、エストリアの……リース様の騎士だというのか……ッ!?」
天を仰ぎ、搾り出すように紡がれたその言葉は、すっかり日が沈み、夜の闇が支配する虚空へと沈んでいったのだった。
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