第18話 魔女の休日1
国境線での勝利を収め、パナヴィアが再び屋敷に帰ってきてから10日余りが過ぎた、ある日のことであった。
「のうクロスよ。そち、子供は好きか?」
焼きたてのパンと温かいスープ、サッと湯通しした温野菜に瑞々しいフルーツといったエストリアの下級貴族であったころのようなメニューが、メリカールの剣闘奴隷生活のときのように床に並べられるという珍妙な光景に、ようやく慣れてきた頃。
同じく自室で朝食を食べながら、不意にパナヴィアはそんなことを尋ねてきた。
「……目の前にいる子供は、わりと苦手だ」
「誰が子供じゃ!? 妾はもう立派なレディじゃぞ、不敬罪で死にたいか!? ……って、いや、そうではなくてじゃな!」
「嫌いじゃない。得意とはいえないが、好きか嫌いかで言うなら、好きだ」
飛んできた空っぽのティーカップを受け止め、アスラルは苦笑交じりにそう答える。
「はじめからそう言わぬか。まったく……少し手柄を立てたからと付け上がりおって」
「誰がいつ何を理由に付け上がったんだか。で、それがどうした?」
「ん? うんにゃ、訊いてみただけじゃ。いやいや、むしろ重要なことであるからな、確認を取っておきたかったんじゃ」
「そんなに重要か?」
「無論じゃ。女王の飼っているペットが子供嫌いであってよいはずがあるまい?」
「……理由を訊いても?」
「ん? むー……いや、ほれ、よう言うであろ? 子は国の宝、と。となれば、女王である妾は国中の子供たちを愛する義務があるし、国中の子供たちから好かれるべく努力せねばならぬ。その妾が子供嫌いのペットを飼うなど、断じてあってはならんと思うのじゃ」
アスラルの顔を見ることなく、虚空へと視線を遊ばせながらそう言うパナヴィアの姿は挙動不審に思えた。
普段の傲岸不遜な姿を間近で見ているせいか、こういう何かを誤魔化すような態度は嫌でも目に付いてしまう。
さりとて、その論は確かに理にかなっている……とは言い難いが、それでも疑いを抱くようなものでもない。
確かに女王ともなれば、そうしょっちゅう民と触れ合うことのできない立場なのだろうから、イメージというのも重要なのだろう、と。
……そのときは、そのくらいで納得することにしておいた。
明らかにおかしいと気付いたのは、昼食を終えて暫くしてからだった。
裏庭で待っていろ、と言われて訳も分からず部屋を追い出され、待てと言ったわりにはいつまで経っても来る気配の無いパナヴィアに文句でも言おうかと小さなテラスを見上げていたら、何とも珍妙なものが現れたのだ。
一瞬、掃除夫見習いの子供かと思った。
あるいは、パナヴィアに呼ばれて靴磨きに来た少年、といったところか。
「待たせたの、クロス」
だが、目深に被った帽子から覗く鮮やかな真紅の髪と、聞き間違えるはずもない尊大な言い回しは、それがパナヴィア本人であると証明するのに十分であった。
「な、なんだその格好は? というか、いいのか女王がそんな……」
「言うたであろ? 妾は元々流民の娘、このような
そう言ってパナヴィアはアスラルに大きなクッションを投げて寄越した。
それを受け取り、はてこの光景はどこかで見たことがあるような……と。
「落とすでないぞ」
アスラルが記憶の片隅から掘り出すよりも早く、それは目の前に現れた。
「ちょっ!? ぅわぁぁっ!?」
きっと何の躊躇いもないのだろう。
ぴょーん、とパナヴィアはテラスの手すりを蹴って宙を舞った。
そして、ぼふん! と。
「うむ、またしても見事。褒めてつかわす」
アスラルの手にしたクッションの中に突っ込んできたのだった。
「……頼むから、飛ぶ前に一言そう言ってくれ、心臓に悪い」
「言ったではないか、落とすなと」
「そうじゃなくて……はあ、もういい」
敵陣に突っ込んでいくときもそれを一言も告げず、ただ付いて来いと言うだけ。
そしてその敵陣であっても自分を守れとは一切言わないこの女王さまに対して、どんなお小言も意味がないように思えた。
「なんじゃ、歯切れの悪い。言いたいことがあるなら言うがよいぞ? こう、勿体つけずにじゃな……」
そう言うとパナヴィアはアスラルからクッションをひったくるように受け取ると、それを自分が飛び降りてきたテラスめがけて思いっきりぶん投げ……。
「……あ」
勢いが足りずにテラスの淵に当たってポテン、と落ちてきたクッションを見つめ、「ごほん!」と大袈裟な咳払いをしてみせた。
「ほ、ほれ、やり方は分かったな? ではクロス、後は任せる」
「……はいはい」
その姿にアスラルは思わず零れそうになる失笑を抑え、落ちたクッションを拾い上げると、少し助走をつけてからそれを放り投げる。
綺麗な放物線を描いて飛んだクッションは、テラスの淵の向こうへと消えていった。
カシャン、と小さな音が聞こえたのは、窓ガラスに当たったせいか。
「…………いい気になるでないぞ?」
「なってないさ」
「そう返すということは、なっているのであろう!? 妾はちっこくないぞ! 肩の力がそちより少しばかり弱いだけじゃ!」
「分かってる分かってる。お前は可憐で華奢な女の子だからな」
「なぬっ? ……ふ、ふん、そうか。うむ、分かっておればよいのじゃ、うむ」
そう言ってぷいっとそっぽを向いて、パナヴィアは独り歩いていってしまった。
そんな姿に、アスラルは再び……今度は呆れの混じったため息を零しつつ、彼女の後を追う。
当然だ、今のパナヴィアは、丸腰同然。そんな状態で屋敷の外に出ようというのだ、考えたくはないが、刺客の襲撃を受ける可能性は無視できない。
先の戦いぶりを見てしまうとつい錯覚してしまうが、パナヴィアはアスラルの胸元に届くかどうかというほどの小柄な少女なのだ。
あの巧みな長槍さばきは、恐らく体の軸を中心に、背と腹から腕へと続く一連の繋がりで行っているのだろう。その証拠に、薄絹の寝巻きや、無理やり連れ込まれた浴場でチラリと見かけるパナヴィアの手足は、驚くほどにほっそりしていた。
それは、幼い日のアスラル自身そのものだ。大人の扱う模擬剣を子供の体躯でふた振りも扱うためにも、腕力に頼らない剣捌きを覚える必要があった。
であるならば、単純な腕力勝負になったらパナヴィアは歳相応の少女であり、仮に力任せに組み伏せられでもしたら、即命取りになる。
自身が生き延びるためにもパナヴィアを死なせるわけにはいかないのは、戦場でも町の中でも同じことだ。
だから奔放な彼女を独りで放っておくわけにはいくまい……
と、誰に言われるでもなく考えてしまうのは、すっかり彼女の番犬役が染みついてしまったせいだろうかと再び大きなため息を零しつつも、同時にアスラルは不思議な懐かしさを感じていた。
この感じは、エストリアの城からリースと共に脱走した、あの頃になんとなく似ているような気がしたのだ。
違いがあるとすれば、目の前にいる少女は背丈こそあの頃のリースに近いと言えなくもないが、性格はまるで似ても似つかないこと。
そして、あのときのリースは子供で、王女であったが、この高慢ちきなお嬢さまは本人いわく立派な大人であるらしく、しかも一国の女王であるということか。
裏庭を囲む植え込みを抜け、その先にある大きな花壇を通り過ぎ、恐らくは庭師が使うものなのだろう使用人用の勝手口を開けて、2人はとうとう屋敷の外へと出てしまった。
「よし……ここまで来ればもう心配あるまい」
「そりゃあよかった。なら、そろそろ説明してくれないか? どうして誰にも言わずに屋敷を抜け出す? 女王として少し軽率すぎじゃないのか? 町の視察に行くならそういう予定を組めば、こんなコソ泥みたいな真似をする必要なんて無いだろう?」
「むぅ……ルミエールと同じようなことを申すな、そちは。何じゃ? メリカールの奴隷になる前は、どこぞの屋敷で執事か何かやっておったのか?」
「……奴隷に過去なんて訊くな。それと勘違いして貰いたくないから言っておくが、別にお前の心配をしているわけじゃない、自分のためだ。ついでに、奔放な女王を戴いてしまった国の未来を、少し憂いてみた。それだけだ」
「ハッ、奴隷がするには随分と壮大な心配事じゃな? じゃが、まあよい。ある意味でよい返事じゃ、と言っておこう」
ふふん、と鼻で笑うと、パナヴィアは踵を返して歩き出す……
「ああ、そうそう。恐らく無自覚じゃろうから、優しい妾が訂正をしておいてやる」
いや、歩き出そうと一歩踏み出した足を軸に、くるりとその場でターンしてみせた。
そして、今度はニマリとイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「国の未来を心配するということは、即ち女王である妾の未来を心配するということと同意語であると心せよ。つまりそちは、妾のことが心配で心配で堪らんと告白したということじゃな。じゃな?」
「…………呆れた誇大解釈だな」
「照れるな照れるな。むしろ、妾のペットとしては非常に善き心がけ、褒めてつかわすぞ」
実に満足気な表情でそう言いながら、パナヴィアはアスラルの腰の辺りをポンポンと叩くと、軽い足取りで駆け出していった。
……このまま屋敷に戻ってしまおうか、とも思ったが、そんなことをしたらパナヴィアを守る者がいなくなってしまう。
それに、きっとあの神経質そうなお付のルミエールから、1人でお咎めを受けることになるだろう。
それだけでなく、恐らくパナヴィアも機嫌もすこぶる悪くなりそうな気がする。
別にお咎めなどどうということはないが、パナヴィアの機嫌が悪くなるのはどうにも居心地が良くない気分だ。
もしかしたら、それもまた〝魔術によって命を握られている〟ことの影響なのか――
(バカなことを。考えるまでもない、俺が生きるためだ。仕方がない)
余計な思案を巡らせることを放棄したアスラルは、こうなればとことんまでパナヴィアに付いて行くことを決めたのだった。
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