第38話 少女の決意

 信じられなかった。

 ずっと待ち焦がれたいたその人だというのに、リースにはそれが信じられなかった。

 目の前で起きているその光景が、信じられなかった。


「ほら、何をしておるリスティーナ、もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ? お前が焦がれていたアスラルが戦っておるのだぞ?」


 呼びに来た兵の様子からただ事ではないことは感じられたが、城壁の上に来てみてその予感は様々な意味で裏切られた。

 今にも首を刎ねられんばかりの兵の態度から、てっきりカリウスが相当苛立っているのだろうと思っていたら、そこにはまるで子供のようなはしゃぎようで、手を叩きながら戦場を見下ろすカリウスの姿があった。

 そして。

 そのカリウスが見ている先にいた人の、姿。


「……アス、ラル……?」


 それは、本当に親指のような大きさであった。

 弓も届かず、砦の前に陣取っている兵隊を刺激しないギリギリの位置を維持しているせいだろう、城壁の上からはずいぶんと離れたところだった。

 けれどリースには、それがアスラルであると……ずっと再会できる日を夢見ていた、アスラル=レイフォードであることが一目で分かった。

 むしろその距離は、今までずっと『リースの知っている距離』だったのだから。

 騎士同士の稽古を近くで見てはいけないと言われていたリースにとって、アスラルが剣を振るう姿はいつも小さなものだったのだから。


 それに、目を閉じていても分かる。

 風に乗って聞こえてくる、剣戟の音。

 それはちょうど、錬兵場から聞こえてくる微かな稽古の音に、とてもよく似ていた。

 たくさんの兵たちが訓練しているのだろう音の中で、アスラルの〝それ〟は、一際よく聞こえた。

 彼の剣が紡ぐリズムは、幼い頃からずっと耳で追いかけていた懐かしいものだったのだから。


 だからこそ、リースには分かった。

 アスラルの剣が、ひどくぶれていることが。

 いいや、ぶれている、という表現は正確ではない。

 戸惑っている、あるいは躊躇っているといったほうがいい。


 いつも大人の先輩騎士相手に稽古をしていたアスラルは、どんなときでも常に全力で、真っ直ぐに剣を打ち込んでいたのをリースは知っている。

 そして、分かっていることなのに「どうしてそんなに剣のお稽古をするの?」と訊くと、少し照れ臭そうにしながら「リース様をお守りできるようになるため」と返してくれるのが、リースにはとても嬉しかったのだから。


 けれど今のアスラルには、それがまるで感じられなかった。

 戦いたくない。

 もうこれ以上、この人に剣を向けたくはない。

 遠く離れているせいで小さく聞こえるだけの金属のぶつかり合う音が、なぜだかそんな思いを運んでくるように思えてならなかった。


「……殿下、あの女の子は、一体……?」


 まるで自分自身に問い掛けるように紡がれたリースの言葉に気付くことなく、カリウスは2人の戦いをさながら演劇かなにかのように見ながら答える。

「ははは、温室育ちのお前が知らぬのも無理はない。だが、よく覚えておくがよい。あの女こそ我ら人類の敵、魔女パナヴィア。血染めの魔女、パナヴィアだ」

「パナヴィア……あの子が?」


 リースであってもその名は知っていた。

 妖魔悪鬼を束ねるルーセシアの女王。敵兵の返り血に塗れた真紅の髪を振り乱し、人を人とも思わぬ残虐非道な戦いぶりは多くの兵を震え上がらせるという血染めの魔女、パナヴィア。

 その噂と、アスラルと戦っているあの少女の姿が、どう見ても合致しなかった。むしろリースの目には、アスラルと同じように思えてならなかったのだ。

 彼女もまた、アスラルと同じく苦しみの中で戦っているように。

 どうすればいいのか、どうすればこの戦いを終わらせることができるのか。

 そう苦悩しているように見えたのだ。


「リスティーナ、お前の騎士は優秀だな。敵に捕らわれ、呪いを掛けられておるのかとばかり思っておったが、とんでもない。敵を騙し、魔女の傍に取り入るまでになっていたというではないか。そしてこの大一番で魔女の首級を上げるべく戦おうというのだから、大したものだ」

「アスラルが、騙し……? そんなはず……そのようなことを、アスラルがするはずがありません!」


 カリウスの言葉に、リースは思わずそう叫んでしまった。

 たとえ相手が敵であっても……悪魔といえども、あのアスラルが誰かを騙すなんて考えられない。

 リースの知っているアスラルは、口下手で嘘の吐けない性分のはずなのだ。

 だからこそ、その裏表の無い誠実さを評されて、若くして騎士に抜擢されたのだから。


「いやいや、あれでどうして見事なものであったぞ。もっとも所詮、騎士は騎士、という愚かさもあるがな。このような茶番をせずとも、戦闘のどさくさに紛れて切ってしまえばいいものを……まあ、それゆえに優秀な騎士なのであろうがな」

「……本当に、アスラルが、裏切りを……?」

「違うな、リスティーナ。裏切りではない、知略。策略だ。敵を欺き、最低限の労力で最大の成果を上げる、兵法だ。

 お前にも見せてやりたかったぞ? アスラルが余のため……いやいや、世のため人のために、ルーセシアの化物どもを相手に見事な名乗りを上げてみせたところを!」


 ハッ、と。

 カリウスの言葉に、リースは弾かれたように顔を上げた。

 そして城壁ギリギリへと歩み寄り、少しでもアスラルの姿を見ようと身を乗り出す。

 そうだ。どうしてアスラルはあのような一騎打ちをしているのだろう。

 もし本当に敵を騙し、女王の傍にまで取り入ったというのであれば、そのまま寝首を掻くなり背後を襲うなり、いくらでもできるのではないか。


 かつてエストリアが落ちたときはどうだった?

 エストリア軍ほぼ全軍が出払った隙をつかれて父王が殺された……そう、もし相手を騙していたのであれば、そうするはずだ。

 なのに、アスラルは一騎打ちなど遠回しな方法で女王を討とうとしている。

 いいや、そもそも本当に討とうとしているのか。


「アスラル……あなたは……?」


 もしかすると彼は、死のうとしているのではないのか。

 裏切り者の不名誉を背負い、それでもなお騎士であろうとして、一騎打ちという方法で決着をつけようとしているのではないか。


 ――騎士で、あろうと、して……?


(わたくし……の……?)


 祖国を失い、守るべきものをすべて失ったというのに、アスラルは未だ騎士であり続けようとしている。

 それは、もしかして。



(わたくしが、いるから……? わたくしが生きているから、あなたはずっとエストリアの……わたくしの騎士でいてくれたのですか……?)



 かちり……と。

 リースの頭の片隅で、何かが噛みあったような、そんな音がした。

 それはきっとリースの思考の歯車であった。

 いや、もしかしたら勝手な思い込みの歯車であったのかもしれない。

 けれど、それでも。


(アスラル……あなたは今日までずっと、わたくしの騎士でいてくれたのですね……)

 祖国を、王を、民を失い、それでもなおアスラルはリースの騎士であり続けた。

 その証拠にアスラルの剣……体に不釣合いなふた振りの重剣クレイモアは、まるで昔のままではないか。


 ――片方は、エストリアに仕える騎士の剣。

 ――もう片方は、わたくしを守ってくれる、わたくしだけの騎士様の剣。


(それを、今もまだずっと……)


 涙が溢れそうだった。

 エストリアの民を奴隷にしないという約束のもと、カリウスの愛妾めかけとして生きることになった日々の中、ただアスラルとの再会だけを夢見て生きてきた。

 もはや何一つとして残されていないと思っていたのに、アスラルはずっと、自分の騎士であり続けていてくれた。

 そしてその約束を守るため……その誓いを果たすために。


(エストリアの騎士として、死のうとしている……!?)


 そう考えた、その瞬間。

 リースの背中を、冷たいものが駆け上がっていった。


 ……もしかしたら。

 カリウスはアスラルが生きていたことを、ずっと知っていたのではないか。

 それどころか、それを知った上でルーセシアに忍び込ませ、決戦の前に反乱を起こさせて内部崩壊を狙ったのではないか。


 そうだ、どうしてそのことに気付かなかったのだろう。

 考えれば考えるほど、カリウスの手管そのものではないか。

 敵を欺き、最低限の労力で最大の成果を上げる……エストリアを滅ぼしたときとまったく同じ方法で、この男はルーセシアを落とそうとしている。

 そして、そんな卑怯な方法にアスラルが従った理由は……。


(わたくしの……)

 ――騎士、だから。


 そのときだった。

「弓兵、構えよ。全軍に進撃命令を出せ」

 すぐ傍で、恐ろしい言葉が聞こえた。


「で、殿下、何を……?」

「何を? 決まっておるではないか。そろそろ飽きてきたのでな、茶番を終わらせてやるのだ。なぁに心配するな、狙いはあくまで魔女一人だ」

 もっとも、と続けて、カリウスは口の端をニィ……と。

「これほどの兵数ゆえ、突撃したはずみでついうっかり……などということが無いとは保障できぬがな」

 耳まで口が裂けあがるのではないかと思うほどの残忍な笑みに、リースは言葉を失った。


 騎士の戦いに横槍を入れるなんて道を外れたことを……などと忠告しても、きっとこう返すだろう。

 ――これもまた、兵法だ、と。

 この男に何を言っても、もはや聞く耳持つまい。

 この男にとって自分は、亡国の王女ではない。

 きっと他にも数多くいるのだろう、愛妾のうちの一人なのだ。

 そして、カリウスがそんな女の願いをいちいち聞き入れるはずなど、無い。


 悔しかった。

 憎らしかった。

 しかしそれ以上に、ただ悲しかった。


 仕方がないと。

 国を失った王族にできることなど何も無いと諦めていたことが。

 この男に従ってさえいれば、エストリアの民が不幸にはならないと信じていたことが。


 なっているではないか。

 今、まさに自分の目の前で。

 誰よりも自分に忠誠を誓い、ただ自分のために騎士であり続けていてくれた男が、不幸になっているではないか。

 そんなことにさえ気付けなかった自分の愚かさが、ただ悲しかった。


 だが、それは同時にリースにひとつの覚悟を与えた。

 カリウスに従ったところで、アスラルを幸せにすることはできない。

 では、もしカリウスに逆らったら?

 間違いなく不幸になるだろう。

 自分の命と引き換えに生かしているエストリア国民を全員奴隷にするくらいのことは平然と行うだろう。

 そんなことになるくらいなら、自分がすべて不幸を背負えばいい。

 それがきっと、唯一生き残った王族の、果たすべき使命だ。

 そう思ったからこそ、リースは今日までずっと生き続けてきた。

 初めてカリウスに夜伽を命じられ、純潔を散らしたあの夜でさえも、その苦痛に、屈辱に、唇を噛んでただ耐え続けた。

 すべては、エストリア国民がこれ以上不幸な目に遭わないでいて欲しいがため。

 王族として、臣民にこれ以上の不幸を強いさせぬため。


 けれど。



 不幸でないということと、幸福であるということは、同義語ではないのだ。



(アスラルは、わたくしの騎士様)


 エストリアの民にとっての幸福とは何であるのか。

 口では民の幸福を願っていたというのに、では民にとっての幸福とは一体何かと問われたら、その答えがまるで出てこない。

 王族に生まれながら、一度としてそんな当たり前のことさえ考えたことのなかった自分の無明に恥じ入りそうになる。


 しかし、これだけは知っていた。

 幼い日からずっと自分に仕えてくれた、あの人が。

 実の家族以上に共に同じ時を過ごしてきた、あの人が。

 結ばれぬ定めなのだと分かっていても、それでも密かに想い続けてきた、

 エストリアの騎士、アスラル=レイフォードが。

 何を幸福と思うのか。


(そう。アスラルはわたくしの騎士様。なら、わたくしはアスラルの――)


 それだけは、よく知っていた。

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